撰文
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『近衛兵紀念碑』、山縣有朋撰、長三洲書皓月堂、1884年4月。全国書誌番号:40071221。
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撰文
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絵画は写生を以て本旨とすれど、写意ならざるべからず。其意を得ざる時は精神乏しく見るに足らざるなり。和絵の写意は、はやく巨勢家二、三代の間に新機軸を出して当時賞せられき。近き世も、賞誉せらるる諸流の達者少しとせざるが中に、芳季ぬしは、天保十年江戸新橋丸屋町に生れ、通称米次郎と呼び、父を吉岡兵部といふ。後に故ありて、ぬし月岡氏を襲て、甫めて十一歳、一勇斎国芳の門に入り、十八歳始て錦絵の筆を揮ふ。斯道の先輩、其筆の凡そならざるを称せりと。明治初年の頃感ずる処有て、暫くその版本を謝絶す。この間困苦ほとほといふべからざるに至るも心敢て関さず、ただ古を師としてむかしの名匠の筆意及び写生法を専らに鑿ミて怠らず、如比するのも両三年漸くにしてかの伊井閣老遭難之図をつくりて出版す。ここに於て画風一変、世人の眼を驚かし、ほぼ今に其名を博す。さればぬしの揮毫を得むと欲するもの多く、各新聞教帋挿画の如きぬしの筆を加ふるものを以て栄したりやと。古のいはゆる写意を得たるらむといは井がぬしの常門生に請へらく、余や猶壮なり。古名家の遺蹟を見るごとに、余が未熟を責む。今十数年を経過せば、世にのこすへきものもあらむと。なほ坐右其粉本を供し、寝ても枕辺にこれを具しておこたらず実に新道に精神を尽す。そもそも力めたりとは劣べし。惜哉天ぬしに年を假さず。明治二十五年六月九日不帰の客となる。時に年五十四。ぬし別号おほし始め玉桜といひ、又一魁斎、後年重病になるは其命に旦夕に迫りしも、幸に全快す。故に改めて大蘇とて最晩年にいたり咀華亭、また子英とも号せり。世間に行はるゝ出版物枚挙に遑あらざれど、其著なるものは、百撰相、日本名将鑑、日本略史図会、新撰東錦絵、芳年漫画、芳年略画、芳年武者无類、三十二相、三十六怪撰、月百姿などの類となりとす。ことし、ぬしのために在世の概略をかかげ、石に勤して後代に示さむとすることかくの如し。明治三十年十二月 正三位 公爵二條基弘題字小杉榲邨撰書 吉川黄雲彫刻
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