田原坂の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
田原は高瀬から植木に至る途上の小丘陵で標高は高くても100mほどでしかなく、地勢的にさして天険というほどではないのだが、その坂は屋根伝いにくねった切通しの坂道で防御に適した地形だった。そして博多から熊本をつなぐ道で大砲を引いて通れるだけの道幅があるのはこの田原坂の道だけだった。 3月4日、征討軍は田原方面を主攻、吉次方面を助攻とする全面攻勢を開始する。田原方面は近衛歩兵第1連隊第一大隊(大隊長:山口素臣少佐)基幹の本隊が平原・大平を、歩兵第14連隊の1部からなる右翼隊が田原坂を攻めたが強固な薩軍の陣地に突破は失敗し、野津少将自ら樽木まで出向いて督戦するも、遊軍が二俣台地(田原丘陵と谷を隔てて向かい合っていた)を占領したに留まった。 同じ頃、征討軍と薩軍は吉次峠でも交戦を開始した。第2旅団参謀長の野津道貫大佐が自ら率いる支隊が払暁からの濃霧を利用して吉次峠北隣の半高山を占領しようとした。これを見た篠原、村田の両隊長は反撃に出て、両軍は激戦となった。この際近衛第1連隊第二大隊長の江田国道少佐は外套に銀装の太刀を帯びて指揮する篠原を視認し部下に狙撃させる。被弾した篠原は戦死するが、激怒した薩軍の猛攻で江田少佐は戦死し、野津支隊は原倉まで後退した。 木葉まで進出した征討軍本営は、3月7日に田原、吉次の同時突破を断念し、田原からの突破に1本化することに決める。4日に占領した二俣台地を攻撃正面とし、以後幾度となる激闘が行われるが、征討軍は田原坂を抜くことが出来なかった。
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