田原坂の激戦
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宇和島から情報交換の為に鹿児島入りした吉田虎一は宇和島に帰ることも出来ず、そのまま西郷軍に加わった。当初は西郷軍は九州全土を席巻する勢いがあったが、やがては圧倒的な軍事力を有する政府軍にじわじわと追いつめられてきた。田原坂の激戦では両軍一進一退の攻防を強いられていたが、乃木希典の指揮する弾薬補給軍が付近の木留山に進軍してきたその時、吉田虎一は単身大刀に篝火を持ち、隊列の中に突入し、身を挺して此を爆破させた。「雨は降る降る人馬は濡れる越すに越されぬ田原坂」と詠われている九州(熊本県北西部)田原坂に於いて西郷隆盛の軍に投じ、自ら壮烈な最期を迎えることになるが、その戦死迄には迫真の逸話を数々残している。その後、日本の朝野挙って震駭した「大津事件」の実行犯滋賀県巡査津田三蔵(明治24年5月11日滋賀県大津市に於いて露国皇太子ニコラスを抜刀し、負傷させた三重県士族)は明治十年陸軍軍曹として西南の役に従軍、自ら負傷する。田原坂の激戦を経験、吉田虎一の自爆攻撃を目撃することになる。退役後は県の巡査を拝命、当時の大津警察署長は宇和島出身の桑山吉輝。桑山が宇和島出身であることを知り、「署長殿は伊予の宇和島藩のご出身と聞いていますが、私も先祖は代々藤堂藩に仕えた御典医でしたので、宇和島藩とは少々縁があるものです。伊予の宇和島はお国柄で滅法な人間(偉い人物の意)が時に出ると聞いております。小官が軍籍にある頃明治十年の西南戦争当時、木留山付近の戦いの時でありましたが、乃木閣下の指揮下にある弾薬輸送車に篝火を抱いて身体諸共突入し爆破した滅法な人物がありました。この為に官軍はひるみ、一斉に賊軍の抜刀隊が斬り込みをかけ、官軍は肝をつぶして大混乱で、一時は総退却でありました。吉田某という宇和島藩士が賊軍に加担してやったことだと聞いております。なんと滅法なことをやるものだと小官は驚いたものでした。」と西南戦争の話をしている。以上は西南戦争と宇和島人、うわじま物語、大君の疑わしい友、谷有二著より抜粋、一部採用する。
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