田原坂突破す
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
征討軍本営では3月18日、野津鎮雄少将(第1旅団長)、三好重臣少将(第2旅団長)、野津道貫大佐(第2旅団参謀長)、高瀬征討本営の大山巌少将などによって作戦会議が開かれた。この会議は作戦立案と意思統一をするために行われた。これまでの戦いの中で、征討軍は多大な兵力を注ぎながらも、一向に戦果が挙がらず、兵力のみが費やされてきた。この原因として挙げられるのは、薩軍が優れた兵を保持していることと、地の利を生かして田原坂の防衛線を築いているためである。現状を打開するには、いち早く田原坂の堅い防衛線突破する必要がある。しかし、兵の疲労を考慮し、19日は休養日として、20日早朝に二方面から総攻撃を決行する、と決めた。 20日早朝、征討軍は開戦以来、最大の兵力を投入した。攻撃主力隊(19個中隊)は豪雨と霧に紛れながら、二俣から谷を越え、田原坂付近に接近した。そして雨の中、二俣の横平山の砲兵陣地から田原坂一帯に未だかつてない砲撃を開始した。砲撃が止むと同時に薩軍の出張本営七本のみに攻撃目標を絞り、一斉に突撃した。薩軍は征討軍の猛砲撃と、断続的に降り注ぐ雨のため応戦が遅れ、七本では状況が把握できないまま攻撃を受けざるを得なかった。 薩軍は防衛線を築いていながらも、突然の攻撃のため徐々に応戦できなくなった。また七本には昨夜ついたばかりの高鍋隊が守っており状況把握が出来ないまま征討軍の猛攻を受け敗走した。これに貴島、佐土原、熊本の諸隊も連鎖反応を起こして潰走、植木方面に敗走した。こうして征討軍は激闘17日、田原坂を抜くことに成功した。 田原陥落を受け、山鹿の薩軍も隈府まで後退する。征討軍はは田原坂を下って植木方面までの侵攻を試みたが、吉次峠の薩軍は踏みとどまり(4月1日に陥落)、途中で薩軍の攻撃にもあって中止となった。田原坂の戦いでは薩軍は敗北に終わったが、21日には早くも有明海・吉次峠・植木・隈府を結ぶ線に防衛陣地を築き上げた。そうすることによって官軍の熊本への道を遮断し、攻撃を遅らせようとした。 3月1日に始まった田原をめぐる戦いは、この戦争の分水嶺になった激戦で、戦争から100年以上たった現在でも現地では当時の銃弾が田畑や斜面からしばしば発見されている。征討軍の弾薬の損耗は1日平均32万発、多いときは60万発にも及び、戦場に大量に銃弾が飛び交ったことで行合弾(銃弾同士が空中で衝突する現象)も多数発見されている。 薩軍では副司令格であった一番大隊指揮長篠原国幹をはじめ、勇猛の士が次々と戦死した。征討軍も3月20日の田原での戦死者だけで495名、4日からの田原方面での戦死者総数は2401名に上った。薩軍の戦死者数は不明ながら参加した30小隊(党薩隊除く)の小隊長のうち11名が命を落としたことからも窺うことができる。こうして多大な戦死者を出しながらも、官軍は田原坂の戦いで薩軍を圧倒し、着実に熊本鎮台救援の第一歩を踏み出した。
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