衝背軍の日奈久上陸と熊本城解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
「西南戦争」の記事における「衝背軍の日奈久上陸と熊本城解放」の解説
薩軍の主力が北部戦線に移った後も熊本城の長囲は続けられていたが、城中の兵糧が尽きるのを待って陥落させるという長囲策を採る薩軍が砲戦を主としたので、守城側はそれに苦しんだ。薩軍主力が北方に転戦したため鎮台の守城負担は幾分減ったとはいえ、開戦前の出火で失った糧食の補充が充分でないため糧食不足に苦しみ、極力消費を抑えることでしのいでいた。池上率いる長囲軍は当初、21個小隊・1個砲隊、計4,700名近くもいたが、長囲策が採られると16個小隊・2個砲隊に減少し、3月になって高瀬・山鹿・田原・植木等の北部戦線が激戦化するにつれ、増援部隊を激戦地に派遣してさらに減少した。そのために長囲軍は寡少の兵で巨大な熊本城を全面包囲することに苦しんだ。一方、鎮台側はこの機に乗じ、時々少量の糧食を城中に運び入れた。 長囲軍が減少した薩軍は、桐野が熊本隊の建策を入れて水攻めを行うべく、3月26日石塘堰止を実行し、坪井川・井芹川の水を城の周囲に引き込んだ。これによって熊本城の東北および西部の田畑は一大湖水に変じた。この策によって薩軍は城の東北および西部に配する兵を数百名節約できたのであるが、その一方、鎮台に対し城の西部を守る兵の削減を可能とさせ、結果的には鎮台側を益することになってしまった。 田原坂の戦いが進展しない3月14日、政府は黒田清隆中将を参軍とし、高島鞆之助大佐を司令長官(心得)とする別働第2旅団(後に第1旅団に改称)を基幹とする衝背軍を編成し、八代方面から上陸し薩軍の後方を脅かし、鹿児島と薩軍を引き離そうとした。別働第2旅団は歩兵4個大隊と警視隊1200名を擁する総勢約4000名の大部隊で、18日に第一陣として歩兵2個大隊と警視隊700名が輸送船扶桑丸、金川丸、玄海丸に分乗、伊東祐麿海軍少将率いる春日、鳳翔、孟春の護衛を受けて長崎を出発した。
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