衝背軍の熊本入城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 19:11 UTC 版)
4月13日、別働第2旅団の山川浩中佐は緑川の中洲にいたが、友軍の川尻突入を見て機逸すべからずと考え、兵を分けて自ら撰抜隊を率いて熊本城目指して突入、翌14日16時頃遂に城下に達した。城中皆が救援部隊の到着に喜んだが、後に山川中佐は作戦を無視した独断専行を譴責されたといわれる。 13日夜、二本木の薩軍本営にいた西郷は、川尻が攻撃されたことを受け、村田新八、池上四郎と共に木山方面に移動した。薩軍も熊本城の包囲を解き14日に木山方面に撤退し、北方の植木・木留・鳥巣方面の諸隊4000名も続々と撤退を開始。城南方面の立田山南麓の新南部村付近に集結した。こうして2月22日以来50余日に渡り奮戦した薩軍の戦線は全面崩壊し、薩軍は熊本城東方の白川と木山川一帯の扇状台地に新たに戦線を構築するも、袋小路に追い詰められてしまった
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