成立前史とは? わかりやすく解説

成立前史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 02:58 UTC 版)

名古屋市中央卸売市場」の記事における「成立前史」の解説

名古屋という都市における卸売市場前史をたどると、熱田魚市場枇杷島青物市場に至る。 熱田魚市場起源はっきりしないが、熱田はもともと七里の渡し発着場であることからわかる通り港町であり、その場所で集散行っていたもの自然と発展していったものと考えられる寛永年間には問屋数が定まり、木之免と大瀬子の2箇所に、各4軒ずつの問屋置かれるようになった天保年間には、尾張三河伊勢のみならず紀伊駿河遠江からも集め業者成立し大いにぎわった枇杷島青物市場は、清須市西枇杷島町橋詰町や南問屋町周辺存在した。こちらの起源はっきりしていないが、1622年元和8年)に問屋6軒が成立したという説があるという。問屋尾張藩保護され、のちに38軒を数えるまでになった尾張美濃三河伊勢駿河だけでなく、京阪方面からの物品運ばれ万物問屋とも称された。 明治時代至って、藩の庇護失ってもなおその繁栄衰えなかったが、大正年間に入ると、物価高騰などにより中央卸売市場開設各地行われるようになった名古屋市でも、1922年大正11年)に西柳町中央市場株式会社船入町名古屋水産市場株式会社の2社を買収し中央卸売市場への改組目指すという方針打ち出された。しかし、この計画は実を結ばなかった。1933年昭和8年)にも市内卸売統合する計画持ち上がるが、これも廃案憂き目見ている。 中央卸売市場計画具体化したのは、戦時統制が進む中で、生鮮食料品などについても統制下におかれることになったためであった1942年昭和17年4月名古屋市生鮮食料品配給調査臨時委員会が、愛知県食品市場規則則った中部北部・南部の3卸売市場建設などに関する答申示した中部市場熱田区湿地帯建設されたが、1945年昭和20年)に完成直後名古屋大空襲により焼失してしまった。 また、北部市場相当する市場は、西春日井郡西枇杷島町庄内川河川敷予定していたが、西区上更通土地買収することで整備することとなった。これは1955年昭和30年1月に、従来枇杷島の名称を受けついて、枇杷島市場として開場した

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成立前史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 21:45 UTC 版)

近衛師団」の記事における「成立前史」の解説

江戸幕府倒し明治新政府樹立され当初政府は独自の軍隊保有しておらず、軍事的に薩摩藩(現:鹿児島県)、長州藩(現:山口県)、土佐藩(現:高知県)の「薩長土」に依存する脆弱な体制であった。そのため1871年明治4年)、政府は「天皇警護」を名目薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属軍隊である御親兵創設し、この軍事力背景に「廃藩置県」を断行した。この御親兵は、1872年明治5年)に初代近衛都督西郷隆盛中心とした近衛兵として改組され、「天皇および宮城皇居)の守護」という任務課せられた。 詳細は「近衛 (日本軍)」を参照 1873年明治6年)に徴兵令制定され鎮台兵として配備されると、近衛兵鎮台兵軍事訓練も担うこととなった1874年明治7年)、近衛歩兵大隊基幹として近衛歩兵連隊第1大隊第2大隊基幹近衛歩兵第1連隊第3大隊と第4大隊を基幹近衛歩兵第2連隊新設)が編成され、同1月23日には帝国陸軍では初め軍旗が近歩1及び近歩2に親授された。 1877年明治10年)の西南戦争日本史最後内戦)では、鍋田川戦い田原坂の戦い城山の戦い従軍する。翌1878年明治11年)には近衛砲兵大隊恩賞への不平から武装反乱する竹橋事件起こった1891年明治24年)、鎮台廃止され師団替わることとなり、山縣有朋によって近衛兵近衛師団改称され陸軍大臣管轄の下、平時隷下各中隊輪番制天皇宮城警護などに当たり、戦時には野戦師団ひとつとして出征し戦闘参加することとなった師団編制となった近衛師団は、数個近衛歩兵連隊基幹として、それに騎兵砲兵工兵輜重兵などの特科部隊統合されていた。 その後近衛師団第二次世界大戦終結による大日本帝国陸軍解散まで戦争事変紛争従軍し出征中の近衛師団に代わって天皇及び宮城警護当たった近衛師団留守近衛師団とされた。初期留守近衛連隊が、のちには近衛歩兵第6連隊などがそれにあたる。

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成立前史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/30 10:05 UTC 版)

ポーランド国民解放委員会」の記事における「成立前史」の解説

1939年9月ソ連ドイツとの秘密協定もとづきポーランド侵攻。そして、ウクライナ人多数派占め東部ポーランド領(カーゾン線以東)を占領併合した1941年6月独ソ戦勃発により、同地域はドイツ軍により占領されたが、スターリン併合既成事実化し戦時中も、連合国ならびにポーランド亡命政府にその承認迫った。しかし一方で東部ドイツ領をポーランド併合しオーデル・ナイセ線西部国境とすることで、その損失分を補う領土案を示した。この「代償方式」に英米とも1943年3月までに原則同意し同年11月末からのテヘラン会談でもこの原則確認された。だが、亡命政府はこれを頑なに拒否し続け、また「カティンの森事件」を機に関係が悪化し43年4月に波ソ関係は断絶された。 1944年赤軍攻勢により、ドイツからのポーランド解放現実味帯びてくると、ソ連亡命政府との和解、あるいは他の親ソ連合政権樹立模索したソ連はまず領土獲得通じて安全保障実現優先し初めから共産主義政権明確な青写真持っていたわけではない。しかし、5月20日から7回にわたって亡命政府とも秘密交渉行なったが、結局スターリンは、6月22日になり、領土要求応じない亡命政府見切りをつけ、一連の交渉打ち切った。そして7月末、赤軍カーゾン線越えたその日ルブリン委員会樹立されのである

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