キックボクシング成立前史とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > キックボクシング成立前史の意味・解説 

キックボクシング成立前史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 04:41 UTC 版)

キックボクシング」の記事における「キックボクシング成立前史」の解説

1959年昭和34年12月20日東京都台東区浅草公会堂でサノン・ETC対ベライノ・チールムーンという、タイ人同士によるムエタイ試合日本初め開催された。日本拳法空手道創始者山田辰雄直接打撃制による空手試合化を目指しており、その研究一環としてムエタイ興味を示す。既に山田同年11月に「新スポーツ発足と其企業化計画草案大綱」なる企画書発表し、新スポーツ空手ボクシング仮称)」を提唱した。この企画書の中で山田は「昭和35年新春期して当方競技とやや同系類に属する『タイ国拳法選士団』を招聘」すると発表した浅草公会堂行なわれムエタイ試合が、山田招聘したものかどうか判然としないが、山田日本初めムエタイ関心示した空手家一人であったことは確かである。山田はさっそく飯田橋道場ムエタイ・前チャンピオンのカウキー(カウイとも)を招待して息子山田侃にスパーリング相手をさせ、ムエタイ研究始めた。このカウキーを山田のもとへ連れてきたのが野口修だったのである1961年昭和36年)、山田発行した日本拳法空手道教本創刊号には、すでにカウキーの写真掲載されており、この時すでに山田空手ムエタイ融合させた新スポーツ構想膨らませていた。 1962年昭和37年)、山田空手ボクシングを「第一回空手競技会」として後楽園ホール開催した。これはノックアウト打倒勝)、体重別階級グローブ着用などのルール採用して行なわれた。のちのキックボクシングフルコンタクト空手先駆ける画期的試みだったが、寸止めルール採用する当時空手界からは黙殺され、新聞でも「ナグるケる木戸ご免」、「正統派?うたう空手競技会」などと酷評された。山田の早すぎた試み結局挫折終わった一方野口修1962年昭和37年8月24日後楽園ホール開催され日本二度目ムエタイ試合観戦して感激し空手ムエタイ興行可能性感じた。早速野口空手家にこの構想打診するが、この時の相談相手大山倍達当時大山道場、のちの極真会館)と山田辰雄だった。1963年昭和38年)、大山道場から黒崎健時中村忠藤平昭雄タイ王国バンコク向かい空手ムエタイ交流戦参加した当地では「日本から空手殴り込みに来た」と大変な反響巻き起こした結果は2勝1敗で大山道場勢が勝ち越したものの、敗れた黒崎打倒ムエタイ誓い1969年昭和44年)にキックボクシング目白ジム創設して、大沢昇・島三雄藤原敏男らを輩出した

※この「キックボクシング成立前史」の解説は、「キックボクシング」の解説の一部です。
「キックボクシング成立前史」を含む「キックボクシング」の記事については、「キックボクシング」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「キックボクシング成立前史」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「キックボクシング成立前史」の関連用語

キックボクシング成立前史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



キックボクシング成立前史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのキックボクシング (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS