成立初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/10 13:46 UTC 版)
帝国運営に無関心であった皇帝フリードリヒ3世が亡くなり、マクシミリアン1世が新たに帝位に就き、帝国改造の機運が高まった。マクシミリアンが皇帝主導での帝国の秩序回復を目指したのに対し、マインツ大司教(選帝侯)ベルトルト・フォン・ヘンネベルクは、公共の秩序を維持するためには主要な諸侯が帝国の意思決定に継続的に参加する必要があると主張していた。 こうした皇帝と諸侯との間でラント平和の主導権争いが行われる中、1495年に「永久ラント平和令」がヴォルムスの帝国議会で決議された。その実務機関として、諸侯の影響下に置かれた司法組織である帝国最高法院が設けられた。また、1500年のアウクスブルク帝国議会で、帝国等族の代表者が帝国の運営に参与する常設委員会として帝国統治院が設けられ、その参議官任命のための地理的区分として6つのクライス(フランケン、バイエルン、シュヴァーベン、オーバーライン、ヴェストファーレン、ニーダーザクセン)が設定された。 しかし帝国統治院は皇帝の反対や有力諸侯の無関心から資金調達が困難となり、わずか2年後に解散し、帝国最高法院も有効に機能しなかった。1507年のコンスタンツ帝国議会では、帝国最高法院改革として、帝国台帳を作成して財政基盤を強化し、陪席判事選出の地域区分としてクライスを活用することが決議された。この時点では、クライスは選挙区としての役割しか持たず、行政上の効力は有していなかった。 しかし、マクシミリアンは、皇帝主導の治安維持構想を放棄したわけではなかった。1500年に選挙区として設けられたクライスに国王が任命する指揮官を配し、治安維持機能を持たせるという提案を1510年の帝国議会で行い、帝国等族の反対にあった。さらに、1512年の帝国議会では、国王の任命する指揮官の上位に帝国指揮官を置き、平和維持、刑の執行、防衛を行うこととする、という修正を加えた帝国クライス構想を再度提案した。帝国等族はこの提案に対して、 1500年の段階では例外とされているハプスブルク家の相続領および選帝侯領も加えて、クライスを10に増やす(加えられるクライスは、ブルグント、オーバーザクセン、クールライン、オーストリア) 指揮官は臨時職とし、必要に応じてクライスに属す帝国等族が任命する。帝国等族の意見が不一致の場合に限り国王がこれを任命すること 帝国指揮官は設けない クライスの機能は平和維持と刑の執行とし、防衛はこれから除外する という修正案を提示した。マクシミリアンもこれに合意し、治安維持機構としての帝国クライスが成立した。しかし、この時点の帝国クライス制度は、指揮官の職責や権限について明確な規定が設けられておらず、制度としては不十分なものであった。実際、1515年にフランツ・フォン・ジッキンゲンが帝国追放に処せられた際、該当クライスであるオーバーライン・クライスは、刑の執行に全く非協力的な態度に終始した。 フェーデの抑止力としても無力で、刑の執行、平和維持のいずれの機能も十分に果たしていない状態であった。
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