都市の成立初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 01:47 UTC 版)
ニュルンベルクの成立は明らかでない。ザクセン、バイエルン、東フランケン、ベーメンの境界で、1000年から1400年頃に保護された重要な街道が交わる地点から徐々に成立していったと考えられている。いずれにせよ、この入植地は成立初期に既に市場の開催権を得ていた。この街は1050年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世のSigena-Urkundeに「Norenberc」として記録されている。現在の地名の元となったこの名前は「岩山」を意味しているものと解釈されている。その後、ニュルンベルク城は皇帝の拠点として神聖ローマ帝国で重きをなした。1065年にハインリヒ4世は帝国領ニュルンベルク及びその周辺地域に高等裁判所管区及び行政管区を設けた。コンラート3世は裁判権と統治権を持つニュルンベルク城伯の位を新設し、ラープス家にこれを与えた。1190年あるいは1191年以後、この地位はツォレルン家(後のホーエンツォレルン家)に移された。フリードリヒ1世(バルバロッサ)は、城伯の手に渡っていた城の背後に二重の礼拝堂(Doppelkapelle)を備えた王宮を建設した。その後、市参事会の権限が次第に拡大していった。 1219年、皇帝フリードリヒ2世の大特権授与(Der 'Große Freiheitsbrief')によりニュルンベルクは帝国自由都市となった。1315年、ルートヴィヒ4世(バイアー)は、この市の自立性を高めるprivilegium de non evocando(控訴棄却特権)を授与した。城伯の影響力は城とその直近に制限され、フランケン地方におけるホーエンツォレルン家の拠点はバイロイトやアンスバッハなどに移っていった。1427年、最後の城伯フリードリヒ6世(ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ1世でもあった)はニュルンベルク城の権利をニュルンベルク市参事会に売却し、城伯の地位は完全に消滅した。これ以後、バイエルン王国に併合されるまで、この都市の行政権は市参事会の手に委ねられた。1256年にはライン都市同盟に参加している。 中世以来、ニュルンベルクはアウクスブルクと共にイタリアとヨーロッパ北部を結ぶ2大貿易都市であった。商業都市の例に漏れずユダヤ人も多く居住していたが、1298年、「リントフライシュ王」と名乗る騎士に煽動された群衆が暴徒と化して各地のユダヤ人街を襲撃し、ニュルンベルクでは698人のユダヤ人が犠牲となった。(血の中傷#ホスチアの中傷参照)後の1349年の迫害では562人のユダヤ人が犠牲になっている。1498年にはユダヤ人全員が市から放逐された。 産業においては、金属手工業、繊維工業、製紙工業が発展した。ヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ (Wolfram von Eschenbach, 1160年/1180年頃 - 1220年頃またはそれ以降)は十字軍文学の傑作『ヴィレハルム』において、有名なニュルンベルクの武具鍛冶屋(Waffenschmiede)に言及している。後の15世紀には、書籍の印刷・出版・販売も盛んに行われた。
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