都市の成熟と里内裏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 22:55 UTC 版)
上島享は平安遷都以来170年ものあいだ火災に無縁だった内裏が天慶9年(960)の焼亡以降、100年たらずの間に10回以上焼亡を繰り返すことからこれ以降の時代を「火災の時代」と呼ぶが、その背景には「公事の夜儀化」と同時に左京北半分への人家密集、即ち火の元の密集もある。これは都市そのものの変容・成熟である。 960年の最初の内裏の焼亡のときは後院の冷泉院に移ったが、次の天元4年(976)の内裏焼亡では藤原兼通の堀河殿を仮の皇居とした。これが里内裏の始まりである。藤田勝也は内裏不在、つまり里内裏の時代を一期と二期に分ける。一期は10世紀後半から11世紀前半で、この間は内裏は被災するとただちに再建に取りかかられる。二期は11世紀後半からで、内裏不在が日常化する。例えば960年の最初の内裏焼亡以来1082年まで14回の内裏焼亡があるが、1001年の焼亡までは2年以内に新造内裏への遷幸(移徙)が行われている。 ところが寛弘2年(1005)の内裏焼亡のときは、内裏再建は1年強で終わっているにも関わらず一条天皇は里内裏から戻らず、寛弘5年(1008)の5~6月頃に一旦新造内裏に入ったが、1年も経たぬ翌年4月以前にまた里内裏の一条院に戻っており、内裏が再建されしだいそちらに戻るという慣例がくずれる。内裏はその権威のために古来の形を踏襲するが、生活感覚はそれに妥協出来ないぐらい乖離してきた現れとも見られる。
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