勅撰歌人とは? わかりやすく解説

勅撰歌人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 17:09 UTC 版)

足利尊氏」の記事における「勅撰歌人」の解説

尊氏は、武将政治家としてだけでなく、芸術家として足跡残している人物で、取り分け室町時代代表する武家歌人として名高い[要出典]。 連歌については『菟玖波集』に68句が入集しており武家では道誉次ぎ二番目多く入集している。 専ら連歌専念した道誉異なり和歌についても足跡多く、『続後拾遺和歌集』(正中3年1326年))から『新続古今和歌集』(永享11年1439年))まで、6種の勅撰集に計86首の和歌が入撰している。幕府成立初期観応の擾乱前の心境詠んだものとして、『風雅和歌集』(興国7年/貞和2年1346年))では、「いそぢまで まよひきにける はかなさよ ただかりそめの のいほりに〈前大納言尊氏〉」とあって50になっても(実際は『風雅和歌集完成時まだ数え47歳)まだ自身迷いのあることを嘆き遁世願っており、尊氏性格当時政局窺えるとなっている。 また、新千載集』を企画し勅撰集武家による執奏という先例打ち立てた[要出典]。

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勅撰歌人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 09:31 UTC 版)

西園寺禧子」の記事における「勅撰歌人」の解説

歌人としては、4つ勅撰和歌集に計14首が入集し、そのほか准勅撰和歌集の『新葉和歌集』にも1首が撰ばれている。 入集内訳は、『続千載和歌集』春上・59、恋二・1231、恋三・1324、恋四・1499、恋四・1533、『続後拾遺和歌集』夏・233恋一653、恋三・844、『新千載和歌集』春下・117、夏・195、冬・632、雑中・1895、慶賀・2346、『新拾遺和歌集』夏・203列挙してわかる通り北朝持明院統主導による京極派の『風雅和歌集』には全く撰ばれていないが、後醍醐敬愛し足利尊氏執奏による二条派の『新千載和歌集』には5首も撰ばれている。

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