勅撰集編纂計画の再燃と延慶両卿訴陳状とは? わかりやすく解説

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勅撰集編纂計画の再燃と延慶両卿訴陳状

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 10:09 UTC 版)

玉葉和歌集」の記事における「勅撰集編纂計画の再燃と延慶両卿訴陳状」の解説

自ら院政を行う身となった伏見上皇は、早速挫折した勅撰和歌集撰集再開目指した。もちろん上皇寵臣、為兼もまた和歌集撰集向けて作業進めた。為兼としては、永仁勅撰の議の際に撰者となった四名のうち、二条為世撰者辞退し飛鳥井雅有九条隆博の両名死没したため、残る撰者である自分一人撰集を担うのが当然であるとの意識であった京極為兼単独勅撰和歌集撰集作業進行させているとの噂は、延慶2年1309年)末頃には二条為世冷泉為相耳に入った。噂を聞きつけた両名は、早速自らが撰者になることを目指し運動を開始した。 延慶3年1月21日1310年2月21日)、二条為世使者として為世の二男である二条為藤が為兼のところへ出向き勅撰和歌集撰集について尋ねた。為兼は為に対して、「為世は永仁勅撰の際、撰者となったその後辞退している。今さら何を言うのかというところだ。こちらは既に歌を撰び終わりこれから清書させて奏覧を待つばかりであり、清書用の色紙についてももう考えている」。と語ったその上で、もし為世や為相が勅撰和歌集撰集について意見があるのならば、早急に申し出てみたらどうかと続けた二条為世は早速、延慶3年1月24日1310年2月24日)、為兼のことを勅撰和歌集撰者としてふさわしくない人物であると厳しく批判し、自らが撰者たるべき旨の訴状伏見上皇捧げた。為世はまた鎌倉幕府にも書状送り、自らの主張正当性アピールした一方為兼は冷泉為相経過書状伝えたところ、延慶3年1月28日1310年2月28日)、為相も自らが撰者加えられるよう申し立てた。ただし為相は為世のやり方厳しく批判して為兼の肩を持ち、為兼とともに自らも撰者となりたいとの姿勢であったそのような中、永仁勅撰の議で撰者一人選ばれ九条隆博の子息の九条隆教も、撰者立候補した当時冷泉為相経済的に厳しく争論に力を割き続け余裕がなかった。結局勅撰和歌集撰者として誰がふさわしいかという争いは、京極為兼二条為世二名対決という構図となった当時公家法による裁判原告被告ともに三問三答といって書状による申し立てを三回ずつ応酬するという形式であった延慶3年1月24日1310年2月24日)の為世による訴え訴状)で開始され裁判は、延慶3年7月13日1310年8月8日)の為兼の三回目回答陳状)の提出まで、双方三回の主張応酬となった二条為世京極為兼間の争点は、以下の4点整理される。 永仁勅撰の議の際になされた撰者任命はまだ有効性残っているか否か流刑罪科受けたことがある人物撰者なり得るのか。 和歌の家の嫡流ではない人物撰者資格があるのか。 勅撰和歌集撰集という大事業成し遂げるために必要な口伝についての伝授を受け、参考となる文献所持しているのは誰であるか。 二条為世永仁時の撰者任命失効しており、流刑前科を持つ者が撰者となるべきではないと主張した一方京極為兼流罪から赦免され青天白日の身となって復帰した以上、過去流罪になったことは勅撰集撰者として全く問題ないとした。もちろん永仁勅撰の議の撰者任命は有効であり、唯一残った撰者として撰集進めることは当然であるとした。 両者は、第三第四争点で最も激しく対立することになる。二条為世藤原俊成藤原定家藤原為家という大歌人を生み出してきた御子左家嫡流であることを強調し勅撰和歌集撰集ノウハウ伝授を受け、参考文献について豊富に所持していると、御子左家嫡流権威全面押し立ててきた。一方為兼は庶子出自撰者となった例として新古今和歌集での寂蓮などを挙げそもそも藤原俊成藤原定家とも当初からの嫡子でなく、後になって嫡子定められたことを指摘して力量優れた者が撰者となるべきとし、また自分こそ祖父為家から和歌口伝参考文献受け継いでいると主張した二条為世京極為兼とも訴訟全力投球したが、結局両者争いは、出自所持している文献口伝等の誇示、そして相手言い分揚げ足取り中心感情的な泥仕合となってしまった。歌論についての争い副次的なものに止まりどのような和歌詠むべきか、そして勅撰和歌集どのようなのであるべきかであるという方向での論議は深まらなかった。 三問三答経て伏見上皇判決を下すことになる。上皇としてはもちろん京極為兼勝訴判決下したかったものの、二条為世将軍執権歌道師範名乗っており、慎重な対応が必要であった一時期上皇京極為兼二条為世冷泉為相三名それぞれに撰集をさせ、複数の集を出してみるのはどうかとの案も考えたが、結局勅撰和歌集は“勅撰”である以上、治天の君考えに従って撰ぶのが筋であり、伏見上皇近臣意見聞き鎌倉幕府了解取った上で応長2年5月3日1311年5月21日)、京極為兼一人勅撰和歌集撰集院宣下した

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