勅撰集編纂計画の再燃と延慶両卿訴陳状
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「玉葉和歌集」の記事における「勅撰集編纂計画の再燃と延慶両卿訴陳状」の解説
自ら院政を行う身となった伏見上皇は、早速挫折した勅撰和歌集撰集の再開を目指した。もちろん上皇の寵臣、為兼もまた和歌集撰集に向けての作業を進めた。為兼としては、永仁勅撰の議の際に撰者となった四名のうち、二条為世は撰者を辞退し、飛鳥井雅有、九条隆博の両名は死没したため、残る撰者である自分が一人で撰集を担うのが当然であるとの意識であった。京極為兼が単独で勅撰和歌集撰集作業を進行させているとの噂は、延慶2年(1309年)末頃には二条為世、冷泉為相の耳に入った。噂を聞きつけた両名は、早速自らが撰者になることを目指し運動を開始した。 延慶3年1月21日(1310年2月21日)、二条為世の使者として為世の二男である二条為藤が為兼のところへ出向き、勅撰和歌集撰集について尋ねた。為兼は為藤に対して、「為世は永仁勅撰の際、撰者となったがその後辞退している。今さら何を言うのかというところだ。こちらは既に歌を撰び終わり、これから清書させて奏覧を待つばかりであり、清書用の色紙についてももう考えている」。と語った。その上で、もし為世や為相が勅撰和歌集撰集について意見があるのならば、早急に申し出てみたらどうかと続けた。 二条為世は早速、延慶3年1月24日(1310年2月24日)、為兼のことを勅撰和歌集の撰者としてふさわしくない人物であると厳しく批判し、自らが撰者たるべき旨の訴状を伏見上皇に捧げた。為世はまた鎌倉幕府にも書状を送り、自らの主張の正当性をアピールした。一方為兼は冷泉為相に経過を書状で伝えたところ、延慶3年1月28日(1310年2月28日)、為相も自らが撰者に加えられるよう申し立てた。ただし為相は為世のやり方を厳しく批判して為兼の肩を持ち、為兼とともに自らも撰者となりたいとの姿勢であった。そのような中、永仁勅撰の議で撰者の一人に選ばれた九条隆博の子息の九条隆教も、撰者に立候補した。 当時、冷泉為相は経済的に厳しく、争論に力を割き続ける余裕がなかった。結局、勅撰和歌集撰者として誰がふさわしいかという争いは、京極為兼と二条為世の二名の対決という構図となった。当時、公家法による裁判は原告、被告ともに三問三答といって書状による申し立てを三回ずつ応酬するという形式であった。延慶3年1月24日(1310年2月24日)の為世による訴え(訴状)で開始された裁判は、延慶3年7月13日(1310年8月8日)の為兼の三回目回答(陳状)の提出まで、双方三回の主張の応酬となった。 二条為世、京極為兼間の争点は、以下の4点に整理される。 永仁勅撰の議の際になされた撰者任命はまだ有効性が残っているか否か。 流刑の罪科を受けたことがある人物が撰者になり得るのか。 和歌の家の嫡流ではない人物に撰者の資格があるのか。 勅撰和歌集撰集という大事業を成し遂げるために必要な口伝についての伝授を受け、参考となる文献を所持しているのは誰であるか。 二条為世は永仁時の撰者任命は失効しており、流刑の前科を持つ者が撰者となるべきではないと主張した。一方京極為兼は流罪から赦免され、青天白日の身となって復帰した以上、過去に流罪になったことは勅撰集撰者として全く問題ないとした。もちろん永仁勅撰の議の撰者任命は有効であり、唯一残った撰者として撰集を進めることは当然であるとした。 両者は、第三、第四の争点で最も激しく対立することになる。二条為世は藤原俊成、藤原定家、藤原為家という大歌人を生み出してきた御子左家の嫡流であることを強調し、勅撰和歌集撰集のノウハウの伝授を受け、参考文献についても豊富に所持していると、御子左家嫡流の権威を全面に押し立ててきた。一方為兼は庶子の出自で撰者となった例として新古今和歌集での寂蓮などを挙げ、そもそも藤原俊成、藤原定家とも当初からの嫡子でなく、後になって嫡子に定められたことを指摘して力量が優れた者が撰者となるべきとし、また自分こそ祖父為家から和歌の口伝、参考文献を受け継いでいると主張した。二条為世、京極為兼とも訴訟に全力投球したが、結局両者の争いは、出自、所持している文献、口伝等の誇示、そして相手の言い分の揚げ足取りが中心の感情的な泥仕合となってしまった。歌論についての争いは副次的なものに止まり、どのような和歌を詠むべきか、そして勅撰和歌集はどのようなものであるべきかであるという方向での論議は深まらなかった。 三問三答を経て、伏見上皇は判決を下すことになる。上皇としてはもちろん京極為兼勝訴の判決を下したかったものの、二条為世は将軍、執権の歌道師範を名乗っており、慎重な対応が必要であった。一時期上皇は京極為兼、二条為世、冷泉為相の三名それぞれに撰集をさせ、複数の集を出してみるのはどうかとの案も考えたが、結局、勅撰和歌集は“勅撰”である以上、治天の君の考えに従って撰ぶのが筋であり、伏見上皇は近臣の意見を聞き、鎌倉幕府の了解も取った上で応長2年5月3日(1311年5月21日)、京極為兼一人に勅撰和歌集撰集の院宣を下した。
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