勅書に対し請書提出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 02:07 UTC 版)
2月15日、北陸道先鋒総督兼鎮撫使の高倉永祜、同副総督兼鎮撫使の四条隆平から勅書が届く。この勅書は藩から藩へとリレーされてきたもので、新発田は村松藩から受け取り、三日市藩へ渡すものであった。各々の藩の考えを伺いたいという趣旨で、副書に、積雪で遅れるので先に書面で通知した、承知したなら請書(うけしょ)を出すように、とあった。翌16日、勅書を三日市に送り、溝口半兵衛は御用人宮北郷左衛門とともに北陸道を南下した。請書の文言は「恐れながらなお以て忠誠に励み、王事に勤労奉るの外、他念ござなく候」というものであった。四条隆平の『北征記事』によると、3月9日に高岡で請書を渡したようである。越後各藩では一番早く、次いで糸魚川12日、高田14日、長岡、三根山16日だった。新発田は京都にいる窪田平兵衛を通じて鎮撫使の状況を知らされていたので素早い対応ができた。対照的に長岡藩は、河井継之助が不在であり、京都筋の情報も持っていなかったことから、寝耳に水で薩長勢が来ると思い込んで大騒ぎしたという。
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