合戦経過
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両軍は12日頃から円明寺川(現・小泉川)を挟んで対陣する。羽柴軍は前夜に中川・高山ら摂津衆が山崎の集落を占拠し最前線に着陣、池田恒興らが右翼に、黒田孝高、羽柴秀長、神子田正治らが天王山(標高270m)山裾の旧西国街道に沿って布陣し、秀吉の本陣はさらに後方の宝積寺に置かれた。これに対して明智軍は御坊塚の光秀の本陣の前面に斎藤利三、阿閉貞征(貞秀)、河内衆、旧幕府衆らが東西に渡って防衛線を張るように布陣し、迎え撃つ構えを取った。当時の山崎には沼地が広がっていたため大軍が通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間に限られ、明智軍がその出口に蓋をした形となっている。 局地的な戦闘はあったものの、翌13日(雨天だったと言われる)も対峙は続く。同日午後4時頃、天王山の山裾を横切って高山隊の横に陣取ろうと移動していた中川隊に斎藤隊の右側に布陣していた伊勢貞興隊が襲い掛かり( →「成句「天王山」」)、それに呼応して斎藤隊も高山隊に攻撃を開始し戦端が開かれた。斎藤・伊勢隊の攻撃を受けた中川・高山両隊は窮地に陥るが、秀吉本隊から堀秀政の手勢が後詰に到着したことで持ちこたえる。天王山麓に布陣していた黒田・秀長・神子田らの部隊は前方に展開し、中川・高山両隊の側面を突くべく天王山中腹を進撃してきた松田政近・並河易家両隊と交戦し、攻防が続いた。 戦局が大きく動いたのは一刻後、淀川(旧流域)沿いを北上した池田恒興・元助父子と加藤光泰率いる手勢が、密かに円明寺川を渡河して津田信春を奇襲。津田隊は三方から攻め立てられ、雑兵が逃げ出したこともあり混乱をきたす。また、池田隊に続くように丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ、光秀本隊の側面を突くような形となった。これを受けて苦戦していた中川・高山両隊も斎藤・伊勢両隊を押し返し、動揺が全軍に広がった明智軍はやがて総崩れとなった。御牧兼顕隊は「我討死の間に引き給え」と光秀に使者を送った後、勢いづく羽柴軍を前に壊滅。光秀は戦線後方の勝龍寺城に退却を余儀なくされるが、主力の斎藤隊が壊走し戦線離脱、黒田孝高らの隊と交戦していた松田政近、殿を引き受けた伊勢貞興らが乱戦の中で討死するなど打撃を受けた。 一方の羽柴軍も前線部隊の消耗が激しく、日没が迫ったこともあり追撃は散発的なものに留まったが、それ以上に明智軍では士気の低下が著しく、勝龍寺城が大軍を収容できない平城だったこともあって兵の脱走・離散が相次ぎ、その数は700余にまで減衰した。光秀は勝龍寺城の北門を密かに脱出して居城坂本城を目指して落ち延びる途中、小栗栖の藪(京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)で農民の落ち武者狩りに遭い竹槍で刺されて殺害されたとも、その場は何とか逃れたものの致命傷を負ったことで、力尽きて家臣の介錯により自害したとも伝えられる( →「成句「三日天下」)。光秀の首は翌日には羽柴軍に届き、京都の本能寺、次いで粟田口で晒された。
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合戦経過
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10月20日耳川以北に布陣していた大友軍が南下を再開、島津軍が占拠していた高城を包囲した。佐土原城主の島津家久は高城救援に向っていた途中で佐伯惟教の軍に遭遇して撃退され敗北した。大友軍は数千丁の鉄砲と国崩しと呼ばれる大筒を使用して3度にわたって攻撃を行ったが、島津家久と高城城主山田有信は城を守った。10月24日島津義久は薩摩・大隅の軍勢を動員、3万の兵を率いて鹿児島を出陣した。島津軍は紙屋城を経由して佐土原城に入ると日向内の島津兵もあわせ4万の軍になった。11月9日島津義弘、島津征久、伊集院忠棟、上井覚兼らの諸将が財部城に入り軍議を開いた。松原に布陣する大友軍を攻撃するため陽動部隊と3つの伏兵部隊が小丸川を渡河して出立し、島津義弘は小丸川の南岸に布陣し戦況を確認した。300名の陽動部隊が松原の大友軍を攻撃、荷駄を破壊した。事態に気付いた大友軍が松原の陣に救援の為に急行すると、陽動部隊は伏兵の埋伏地点に退却した。また伏兵を支援するため高城の島津家久が出撃、大友軍本隊を牽制した。3つの伏兵部隊は埋伏地点に到達した大友軍を攻撃し、松原の陣に侵入し火を放った。島津義弘、島津征久、島津忠長、伊集院忠棟らの主力部隊も混乱に乗じて渡河し、高城川の南岸に布陣した。前哨戦の損害を受けて大友方は田原親賢ら16人の使者を島津の陣へと派遣、講和を申し出た。その中で大友軍内は講和派と主戦派に割れている状態であった。軍議では主戦派の田北鎮周は交戦を主張していたが、大将田原親賢は島津軍との和睦交渉を進めていたため講和派として応じなかった。親賢の説得にも関わらず、田北鎮周と佐伯宗天がこれを不服として島津軍に攻撃を仕掛けてしまったため、大友軍はこれを放置するわけにもいかず、やむなく島津軍と戦うことになった。また、大友軍の軍師角隈石宗は「血塊の雲が頭上を覆っている時は戦うべきでない」と主張するも、田北鎮周と佐伯宗天は角隈石宗の主張を聞き入れず結局交戦に至った。佐伯宗天は当初、田原親賢と共に慎重・講和論を唱えていたのだが、軍議の席で田北に侮辱され、それが原因で田北と共に攻撃を仕掛けてしまった。一方大友方の軍議を知った島津義久は合戦に備えて諸将を埋伏させ、自らは1万の兵を率いて根白坂に布陣した。11月12日の朝、田北・佐伯の軍勢が小丸川北岸に布陣する島津軍前衛への攻撃を開始した。大友軍の本隊も二人に続き、島津軍前衛部隊は壊滅、北郷時久、北郷久盛らが討死した。大友軍は小丸川を渡ると島津義久本隊を攻撃した。島津義弘、島津歳久、伊集院忠棟らが大友軍を迎えうち、伏兵部隊を指揮する島津征久が馬標を立てた。伏兵が大友軍を攻撃し、高城の島津家久、根白坂の島津義久も攻撃に参加した。大友軍は態勢を整える為に撤退を始め、その際に一部の部隊が竹鳩ヶ淵方面へ撤退し、淵で佐伯宗天らが溺死してしまう。川原、野久尾の陣が制圧、本陣も制圧されると大友軍は耳川方面へと撤退を開始。大友軍の撤退の際に耳川を渡りきれず溺死した者や、その際に島津軍の兵士に殺されてしまった者もいたという。戦況を受けて、大友宗麟は態勢を整える為に豊後へ一時退去した。耳川の合戦は島津軍の勝利に終わった。
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合戦経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 08:33 UTC 版)
戸ノ本の戦いで勝利した長宗我部元親は、宇津野山から長浜城の支城である潮江城を見据えた時、城内が無人であると考え、長宗我部国親や秦泉寺豊後などの反対意見を押し切り、手勢800人で火縄銃や弓を持って城内に侵入。この時城主であった森孝頼は既に潮江城から逃走しており、大量の旗本と長浜城の戦いの残兵、僅かな兵しか城内にはおらず、合戦開始から間もなく潮江城は落城した。
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