合戦経過とは? わかりやすく解説

合戦経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:24 UTC 版)

山崎の戦い」の記事における「合戦経過」の解説

両軍12日頃から円明寺川(現・小泉川)を挟んで対陣する。羽柴軍は前夜中川高山摂津衆山崎集落占拠し最前線着陣池田恒興らが右翼に、黒田孝高羽柴秀長神子田正治らが天王山標高270m)山裾の旧西国街道沿って布陣し秀吉本陣はさらに後方宝積寺置かれた。これに対して明智軍御坊塚の光秀本陣前面斎藤利三阿閉貞征(貞秀)、河内衆、旧幕府衆ら東西渡って防衛線を張るように布陣し迎え撃つ構え取った当時山崎には沼地広がっていたため大軍通過できるのは天王山と沼の間の狭い空間限られ明智軍がその出口をした形となっている。 局地的な戦闘はあったものの、翌13日雨天だったと言われる)も対峙は続く。同日午後4時頃、天王山山裾横切って高山隊の横に陣取ろう移動していた中川隊に斎藤隊の右側布陣していた伊勢貞興隊が襲い掛かり( →「成句「天王山」」)、それに呼応して斎藤隊も高山隊に攻撃開始し戦端開かれた斎藤伊勢隊の攻撃受けた中川高山両隊は窮地陥るが、秀吉本隊から堀秀政の手勢が後詰到着したことで持ちこたえる天王山麓に布陣していた黒田・秀長・神子田らの部隊前方展開し中川高山両隊の側面を突くべく天王山中腹進撃してきた松田政近並河易家両隊と交戦し攻防続いた戦局大きく動いたのは一刻後、淀川旧流域)沿いを北上した池田恒興・元助父子加藤光泰率い手勢が、密かに円明寺川を渡河して津田信春を奇襲津田隊は三方から攻め立てられ雑兵逃げ出したこともあり混乱をきたす。また、池田隊に続くように丹羽隊・信孝隊も右翼から一斉に押し寄せ光秀本隊側面を突くような形となった。これを受けて苦戦していた中川高山両隊も斎藤伊勢両隊を押し返し動揺全軍広がった明智軍はやがて総崩れとなった御牧兼顕隊は「我討死の間に引き給え」と光秀使者送った後、勢いづく羽柴軍を前に壊滅光秀戦線後方勝龍寺城退却余儀なくされるが、主力斎藤隊が壊走戦線離脱黒田孝高らの隊と交戦していた松田政近、殿を引き受けた伊勢貞興らが乱戦の中で討死するなど打撃受けた一方羽柴軍も前線部隊消耗激しく日没迫ったこともあり追撃散発的なものに留まったが、それ以上明智軍では士気低下著しく勝龍寺城大軍収容できない平城だったこともあって兵の脱走離散が相次ぎ、その数は700余にまで減衰した。光秀勝龍寺城北門密かに脱出して居城坂本城目指し落ち延びる途中小栗栖京都市伏見区、現在は「明智藪」と呼ばれる)で農民落ち武者狩り遭い竹槍刺され殺害されたとも、その場は何とか逃れたものの致命傷負ったことで、力尽きて家臣介錯により自害したとも伝えられる( →「成句「三日天下」)。光秀の首は翌日には羽柴軍に届き京都本能寺次いで粟田口晒された。

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合戦経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 09:49 UTC 版)

耳川の戦い」の記事における「合戦経過」の解説

10月20日耳川以北布陣していた大友軍が南下再開島津軍占拠していた高城包囲した佐土原城主の島津家久高城救援に向っていた途中で佐伯惟教の軍に遭遇して撃退され敗北した大友軍は数千丁の鉄砲国崩し呼ばれる大筒使用して3度わたって攻撃行ったが、島津家久高城城山田有信は城を守った10月24日島津義久薩摩大隅軍勢動員、3の兵を率いて鹿児島出陣した島津軍紙屋城経由して佐土原城に入ると日向内の島津兵もあわせ4の軍になった11月9日島津義弘島津征久伊集院忠棟上井覚兼らの諸将財部城入り軍議開いた松原布陣する大友軍を攻撃するため陽動部隊3つの伏兵部隊小丸川渡河して出立し島津義弘小丸川南岸布陣し戦況確認した300名の陽動部隊松原大友軍を攻撃荷駄破壊した事態気付いた大友軍が松原の陣に救援為に急行すると、陽動部隊伏兵埋伏地点退却した。また伏兵支援するため高城島津家久出撃大友本隊牽制した。3つの伏兵部隊埋伏地点到達した大友軍を攻撃し松原の陣に侵入し火を放った島津義弘島津征久島津忠長伊集院忠棟らの主力部隊混乱乗じて渡河し、高城川南岸布陣した。前哨戦損害受けて大友方は田原親賢16人の使者島津の陣へと派遣講和申し出たその中で大友軍内は講和派と主戦派に割れている状態であった軍議では主戦派の田北鎮周交戦主張していたが、大将田原親賢島津軍との和睦交渉進めていたため講和派として応じなかった。親賢の説得にも関わらず田北鎮周佐伯宗天がこれを不服として島津軍攻撃仕掛けてしまったため、大友軍はこれを放置するわけにもいかず、やむなく島津軍と戦うことになったまた、大友軍の軍師角隈石宗は「血塊頭上覆っている時は戦うべきでない」と主張するも、田北鎮周佐伯宗天角隈石宗主張聞き入れず結局交戦至った佐伯宗天当初田原親賢と共に慎重・講和論を唱えていたのだが、軍議の席で田北侮辱され、それが原因田北と共に攻撃仕掛けてしまった。一方大友方の軍議知った島津義久合戦備えて諸将埋伏させ、自らは1万の兵を率いて根白坂に布陣した。11月12日の朝、田北佐伯軍勢小丸川北岸布陣する島津軍前衛への攻撃開始した大友軍の本隊二人続き島津軍前衛部隊壊滅北郷時久北郷久盛らが討死した。大友軍は小丸川を渡ると島津義久本隊攻撃した島津義弘島津歳久伊集院忠棟らが大友軍を迎えうち、伏兵部隊指揮する島津征久馬標立てた伏兵大友軍を攻撃し高城島津家久根白坂の島津義久攻撃参加した大友軍は態勢整え為に撤退始めその際一部部隊が竹ヶ淵方面撤退し、淵で佐伯宗天らが溺死してしまう。川原、野久尾の陣が制圧本陣制圧されると大友軍は耳川方面へと撤退開始大友軍の撤退の際に耳川渡りきれず溺死した者や、その際島津軍兵士殺されてしまった者もいたという。戦況受けて大友宗麟態勢整え為に豊後一時退去した。耳川の合戦島津軍勝利終わった

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合戦経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/14 08:33 UTC 版)

潮江城の戦い」の記事における「合戦経過」の解説

戸ノ本の戦いで勝利した長宗我部元親は、宇津野山から長浜城支城である潮江城を見据えた時、城内無人であると考え長宗我部国親秦泉寺豊後などの反対意見押し切り手勢800人で火縄銃や弓を持って城内侵入。この時城主であった森孝頼は既に潮江城から逃走しており、大量旗本長浜城戦い残兵僅かな兵しか城内はおらず合戦開始から間もなく潮江城は落城した。

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