松田政近
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/17 00:30 UTC 版)
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 天正10年6月13日(1582年7月2日) |
別名 | 通称:太郎左衛門 |
主君 | 明智光秀 |
氏族 | 松田氏 |
子 | 五郎 |
松田 政近(まつだ まさちか、生年不詳 - 天正10年6月13日(1582年7月2日))は、戦国時代の武将。明智光秀の家臣。通称は太郎左衛門。
略歴
丹波衆の一人。山崎の戦いでは並河易家隊と共に明智軍の山手先鋒隊として先陣。羽柴秀吉軍の左翼(山側)が手薄であると考え、事を機に乗じて、中川清秀・高山右近隊を側面から奇襲しようと接近した。しかし、天王山にいた羽柴秀長・黒田孝高隊が、中川・高山隊を援護して交戦することとなり、攻防を繰り広げたが、討死した。
子孫
『福知山市史』によると元和7年(1621年)に亀山藩の岡部長盛が福知山藩に転封された時に、光秀の家臣松田太郎左衛門の一子・五郎が、これに従って福知山へ越したという記録がある。これによれば五郎は父の討死後は母と並河村に逃避し、亀山で奉公したと云う。
参考文献
- 二木謙一『明智軍記』新人物往来社、1995年。ISBN 4404021836。
- 福知山市史編さん委員会 『福知山市史』
松田政近(まつだ まさちか)
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「センゴク」の記事における「松田政近(まつだ まさちか)」の解説
通称は太郎左衛門。明智家の武将。山崎の戦い時には、地元大山崎出身であったことから合戦前の情報収集などに当たり、光秀の大山崎視察の際には案内役を務めた。山崎の戦いでは、山手の先備えとして布陣し、神子田・尾藤らの黄母衣衆を切り崩している。しかし敗色濃厚となると敗走する自軍を尻目に「この荘厳なる合戦に永久に身を埋めたい」と言い残し戦場に消えていった。
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