小田原北条家から長尾顕長へ
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「本作長義」の記事における「小田原北条家から長尾顕長へ」の解説
本作は北条氏直から長尾顕長へ、臣従儀礼の一環として贈られたものである。顕長率いる長尾家は領地周辺を治める戦国武将の動向に合わせて臣従する主君を度々変えており、「屋形様」とされる氏直率いる小田原北条家とも敵対と臣従を繰り返していた。 1584年(天正12年)に勃発した小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉側についた長尾家ら国人衆と徳川家康側についた小田原北条家との間で8月末に講和が成立していた(沼尻の合戦#経過)。しかし小田原北条家は講和後も国人衆への攻撃を停止せず、同年末には長尾家は館林領を失ったことで翌年初頭には小田原北条家に降伏・臣従することを余儀なくされた。 戦国時代の臣従儀礼として、臣従する国人当主は主君の許へ自ら赴かないと臣従の保証がされず、一方で臣従を受け入れる主君も完全臣従させたことを世間にアピールするためそれ相応の待遇で迎える必要があった。本作もその一環として贈られたものであり、長尾家と小田原北条家との関係が日本刀の銘文で裏付けされた極めて珍しいものである。 本作は長義自身によって切られた銘が磨り上げによって残っておらず、堀川国広によって茎(なかご、柄に収まる手に持つ部分)に計62字にわたる銘が切られており、刀剣の銘として異例の長文かつ説明的な銘文となっている。その内容から、本作は1586年(天正14年)7月21日に長尾顕長が小田原城へ参上した際に北条氏直から下賜されたものであり、4年後の1590年(天正18年)5月3日に伝来を記録する追刻銘が堀川国広によって彫られたことが判る。1590年(天正18年)は豊臣秀吉による小田原攻めが行われた年であり、敗戦を察した顕長が国広に命じて刀の由緒について銘を切らせたともいわれる。銘入れの場所については小田原城説と、足利学校説がある。なお、銘文の原文・現代語訳は以下の通りである。 指表(カッコ内は書き下し文の読み) 原文:本作長義天正十八年庚刁五月三日ニ九州日向住國廣銘打 (ほんさくながよしてんしょうじゅうはちねんかのえとらごがつさんひにきゅうしゅうひゅうがのじゅうくにひろめいをうつ) 現代語訳:この長義の刀は、天正18年5月3日に九州日向出身の国広が銘を入れた。 指裏(カッコ内は書き下し文の読み) 原文:長尾新五郎平朝臣顕長所持 天正十四年七月廿一日小田原参府之時従 屋形様被下置也 (ながおしんごろうたいらのあそんあきながしょじ てんしょうじゅうよねんしちがつにじゅういちにちおだわらさんぷのとき やかたさまよりくだしおかるなり) 現代語訳:この刀は長尾新五郎顕長が所持している刀である。天正14年7月21日に長尾が小田原へ参府した際、屋形様(北条氏直)より拝領した刀である。
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