小田原北条家から長尾顕長へとは? わかりやすく解説

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小田原北条家から長尾顕長へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 05:21 UTC 版)

本作長義」の記事における「小田原北条家から長尾顕長へ」の解説

本作北条氏直から長尾顕長へ、臣従儀礼一環として贈られたものである。顕長率い長尾家領地周辺治め戦国武将動向合わせて臣従する主君を度々変えており、「屋形様」とされる氏直率い小田原北条家とも敵対臣従繰り返していた。 1584年天正12年)に勃発した小牧・長久手の戦いでは、豊臣秀吉についた長尾家国人衆徳川家康についた小田原北条家との間で8月末に講和成立していた(沼尻の合戦#経過)。しかし小田原北条家講和後も国人衆への攻撃停止せず同年末には長尾家館林領を失ったことで翌年初頭には小田原北条家降伏臣従することを余儀なくされた。 戦国時代臣従儀礼として、臣従する国人当主主君の許へ自ら赴かないと臣従保証がされず、一方で臣従受け入れ主君も完全臣従させたことを世間アピールするためそれ相応待遇迎える必要があった。本作もその一環として贈られたものであり、長尾家小田原北条家との関係が日本刀銘文裏付けされた極めて珍しいものである本作長義自身によって切られた銘が磨り上げによって残っておらず、堀川国広によって(なかご、柄に収まる手に持つ部分)に計62字にわたる銘が切られており、刀剣の銘として異例長文かつ説明的な銘文となっている。その内容から、本作1586年天正14年7月21日長尾顕長小田原城参上した際に北条氏直から下賜されたものであり、4年後の1590年天正18年5月3日伝来記録する追刻銘が堀川国広によって彫られたことが判る1590年天正18年)は豊臣秀吉による小田原攻めが行われた年であり、敗戦察した顕長が国広命じて刀の由緒について銘を切らせたともいわれる。銘入れ場所について小田原城説と、足利学校説がある。なお、銘文原文現代語訳以下の通りである。 指表(カッコ内は書き下し文読み原文本作長義天正十八年庚刁五月三日九州日向國廣銘打 (ほんさくながよしてんしょうじゅうはちねんかのえとらごがつさんひにきゅうしゅひゅうがじゅうくにひろめいをうつ) 現代語訳:この長義の刀は、天正18年5月3日九州日向出身国広が銘を入れた。 指裏(カッコ内は書き下し文読み原文長尾五郎平朝臣長所天正十四七月廿一日小田原参府之時従 屋形様被下置也 (ながおしごろうたいらのあそんあきながしょじ てんしょうじゅうよねんしちがつにじゅういちにちおだわらさんぷのとき やかたさまよりくだしおかるなり) 現代語訳:この刀は長尾五郎顕長が所持している刀である。天正14年7月21日長尾小田原参府した際、屋形様(北条氏直)より拝領した刀である。

※この「小田原北条家から長尾顕長へ」の解説は、「本作長義」の解説の一部です。
「小田原北条家から長尾顕長へ」を含む「本作長義」の記事については、「本作長義」の概要を参照ください。

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