小田原北条氏臣 松田氏
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相模松田氏は藤原鎌足を遠祖とし、その13代目藤原公光の時に相模守となり相模国秦野に土着した。14代藤原経範は波多野に改姓し、波多野氏の開祖となった。 19代義常は松田郷に住む。その子有常は松田を称して松田次郎と名乗り、松田氏の始祖となった。当時波多野氏から分かれた一族は松田の他に河村、広沢、大友、菖蒲、沼田、大槻、小磯、宇治などがある。 当初波多野、松田一族は源氏方であり、波多野義通は京都に上って源義朝に仕えていたが、1156年保元の乱後、旧主である義朝の父・源為義を殺さなければならない羽目になって義朝との間が不和になり、相模国に帰国。こうした経緯により、源氏の没落と共に平家方に付いた。 義常は治承4年(1180年)石橋山の戦いでは大庭景親と共に頼朝軍を破り、頼朝の鎌倉入りの際にも一族と共に松田城に籠り抗戦をしたが、義常は頼朝に追われ自害をした。義常の嫡男松田有常はこの時、大庭景義の懐島の屋敷にいて難を逃れた。源頼朝の腹違いの兄・源朝長の母(坊門姫)は義常の叔母でもあり、大庭景義は頼朝の父義朝の重臣で、鎌倉幕府の長老であった。松田有常は大庭景義の外甥でもあったので、景義は義常誅伐のことを事前に察知していて、密かに保護を加えたものである。後に大庭景義は松田有常を伴って頼朝の元に参上して許され、後に松田郷を与えられ、松田次郎を名乗り松田氏が起こった。 承元4年(1210年)相模国丸小川で小早川、土肥らの一族と争う。和田義盛、三浦義村によって鎮圧された。建暦3年(1213年)の和田合戦では和田義盛に味方した者が松田一族より多数見受けられる。 元弘3年/正慶2年(1333年)新田義貞が鎌倉幕府を討つ為に武蔵国に入り分倍河原の戦いで鎌倉北条軍に敗れた後、松田一族は相模国の同志軍と共に新田義貞軍に参陣。 南北朝時代に於いては南朝方の後醍醐天皇に味方し、新田義貞軍に組した。新田義貞の没後、新田義興、脇屋義治軍総勢6,000騎が松田城、河村城や西丹沢の諸城に移り、これを足利尊氏自ら大軍を率いて攻め込んできたので、足柄の地は一大戦場と化した。この頃松田一族は各地に分散し、備前松田氏は北朝方の室町幕府に属していた。 室町時代の後半になると関東公方の足利氏が衰微しており、8代松田頼秀は京都に居住していたが、将軍の命で関東に下向した。その頃、相模国では大森氏が小田原城を占拠して諸家を征服、松田氏にも攻略の手を加えてきた。扇谷上杉氏と大森氏の進攻に苦戦をしていたが、1495年伊勢盛時が大森藤頼を倒して小田原城に入城した時に松田頼秀が協力した。伊勢盛時と、奉行衆松田氏、奉公衆備前松田氏、相模松田氏は同じ幕臣として協同しており、この時に備前松田氏と奉行衆松田氏からは松田数秀、松田長秀、松田頼亮、松田秀致、松田晴秀らが応援に駆け付けた。(「関侍伝」には、頼秀・数秀・長秀・頼亮・秀致・盛秀・晴秀の名が記載されているが、このうち頼秀・数秀・晴秀は年代的にも整合性がないため再考を要する) そのように後に後北条氏となる地域権力の確立に当初から協力してきた相模松田氏は北条家家臣団として御由緒家七家に列し、家老職を勤める。北条氏家臣団中最高の2798貫110文(松田一族では3922貫995文)の所領高であった。 10代松田憲秀に至って松田氏は全盛に達し、北条家の重代の筆頭家老として権勢並ぶものが無かったという。 天正18年(1590年)豊臣秀吉の小田原征伐の時に際し、憲秀は「豊臣方22万に対し北条方は5万と劣勢にあって勝ち目の無い野戦は無謀である」と、小田原城中の評定に於いて籠城策を主張する。これに対して北条氏照、北条氏邦は野戦を主張したが、憲秀の籠城策が採られた。一方憲秀は「北条家に相模の国と伊豆二国の安堵と全員の助命を条件」として開城する事で独自に前田利家、堀秀政と戦後処理についての駆け引きをしていた。ところが、豊臣秀吉は小田原城内の混乱を狙って憲秀内通との戦略的噂を吹聴した。このことがあって間もなく小田原城は開城した。 北条氏滅亡後、松田氏は交渉をしていた前田氏に4,000石で召抱えられた。その後石高に変化はあるが、1871年廃藩置県まで加賀藩臣として存在した。 憲秀の弟松田康定の後裔は徳川家康に仕え旗本として存続した。
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