小田原合戦から最期
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家康と同盟を結んだ後、氏直は下野・常陸方面に侵攻して勢力を拡大し、佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝、太田資正らを圧迫した。しかし中央で信長の死後、その重臣だった豊臣秀吉が台頭し、関東惣無事令が発令されて私戦が禁止されたため、氏直は秀吉との戦いを意識して天正15年(1587年)から軍備増強に務めた。一方で秀吉の実力も認識していたようであり、天正16年(1588年)春には家康の仲介も受けて、8月に叔父の北条氏規を上洛させて秀吉との交渉に臨んだ。 なお、父や叔父の北条氏照ら強硬派が氏直・氏規ら穏健派と対立したとされているが、上野沼田城受取り後の氏政は上洛に前向きであることが各種書状で明らかとなっているため、氏政が強硬派とは一概に決めつけることはできない。また、氏規が上洛した直後に氏政が政務に一切口出しをしなくなったことが確認される。 しかし天正17年(1589年)の秀吉の沼田裁定による沼田城受取後に、猪俣邦憲による真田昌幸の支城・名胡桃城奪取事件が起きて、これが惣無事令違反であるとして、秀吉との関係は事実上破綻した。このことについて、氏直は名胡桃城は北条が乗っ取ったのではなく、既に真田に返還していることと、この件について真田方の名胡桃城主と思われる中山の書付を進上するので真理を究明してほしい旨を、秀吉側近の津田盛月・富田一白に対して弁明するとともに、家康に対しても同様に執り成しを依頼した。ところが家康は秀吉から小田原征伐に関する軍議に出席するよう求められたため、既に上洛しており、家康への依頼が実を結ぶことはなかった。 天正18年(1590年)から秀吉による小田原征伐が始まった。氏直はこれに対して領国内に動員令をかけるとともに、小田原城をはじめとする各支城を修築し、さらに野戦の場合を想定して、3月に箱根の屏風山等の陣場を巡検した。しかし山中城落城により結局小田原城で籠城することになる。籠城は4月から3カ月に及んだが、秀吉の大軍による小田原城の完全包囲、水軍による封鎖、支城の陥落などに加え、重臣・松田憲秀の庶子・笠原政晴が秀吉に内応しようとした(氏直が事前に政晴を成敗した)ことなどから、7月1日には和議を結ぶことを決意し、5日に秀吉方の武将・滝川雄利の陣所へ赴いて、氏直自身が切腹することにより将兵の助命を請い、秀吉に降伏した。 しかしながら秀吉は氏直の申出について感じ入り神妙とし、家康の婿であったこともあり助命された。他方、氏政・氏照及び宿老の大道寺政繁・松田憲秀は切腹を命じられ、11日に氏政・氏照が切腹となった。12日に氏直は紀伊国高野山へ登ることに決まり、21日に太田氏房・千葉直重・北条直定・北条氏規・北条氏忠・北条氏隆・北条氏光等の一門及び松田直秀・大道寺直繁・山角定勝・山角直繁・安藤清広・遠山直吉・北条氏資(高橋種資)・山上久忠・梶原景宗・内藤直行・宮城泰業等の家臣30余名を伴って小田原を出立し、8月12日に高野山に到着した。その後、高室院にて謹慎生活を送った。以後「見性斎」と称す。 天正19年(1591年)1月から氏直は、冨田一白と津田盛月を通して家康に口利きを依頼するなど赦免活動を開始し、2月には秀吉から家康に赦免が通知された。5月上旬には大坂で旧織田信雄邸を与えられ、8月19日には秀吉と対面し正式に赦免と河内及び関東において1万石を与えられ豊臣大名として復活した。さらに小田原に居住していた督姫も27日に大坂に到着し、家臣への知行宛行、謹慎中の借財整理をおこなっていたが、11月4日に大坂で病死した。多聞院日記によると死因は疱瘡と記述されている。享年30。氏直の死後、従弟で氏規の嫡子である北条氏盛が氏直の名跡と遺領の内4,000石を相続し、慶長3年(1598年)に氏規の跡を継いで1万1千石の大名となり、北条宗家は河内狭山藩主として幕末まで存続した。 氏直には娘が2人いたが、長女は夭折、次女は池田利隆の許婚となったが慶長7年(1602年)に17歳で病死している。
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