奉行衆 松田氏(桓武平氏流)
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「松田氏」の記事における「奉行衆 松田氏(桓武平氏流)」の解説
鎌倉後期より多数の六波羅奉行人を出し、室町時代には二階堂氏・波多野氏と並んで室町幕府評定衆に列した松田氏がいた。応永年間には政所執事代として史上に現れる者もおり、松田満秀・松田秀興・松田数秀らは奉行人の筆頭の公人奉行に任じられる。応仁・文明の乱以後、松田数秀・松田長秀・松田清秀・松田晴秀らが政所寄人の筆頭である政所執事代に任じられ、飯尾氏・清氏らとともに幕府奉行人として永禄年間(1558年 - 1570年)に至るまで活動していた。 この一族は代々の文筆官僚であったことから現在でも東寺百合文書(国宝、ユネスコ世界記憶遺産)などに多数の書状が現存しており、「松田丹後守平長秀記」「武政軌範」などの書物のほか、和歌に長じているものも多く、「松田丹後守平貞秀集」などの和歌集も残している。「松田丹後守平長秀記」は足利義満や足利義教の元服時の記録などを書き残したものであり、長秀自身は政変により殆どの奉行人が更迭された中で、彼一人新政権下に引き続き出仕した事実は、その能吏ぶりが余人に替え難かったと考えられており、幕府官僚としての活動のほかに香人としての顔を持つ文化人でもあった。「武政軌範」は各被引用史料を相伝した松田丹後守流の史料が豊前守流の松田貞頼(=松田貞康)に伝わったものと考えられており、大河ドラマ『花の乱』では松田貞頼が足利幕府の使者として日野家へ足利義政と日野富子の婚礼の日取りを報告する場面が描写されている。 松田豊前守頼亮は、応仁の乱後33年間中断していた祇園祭を復興するにあたり、山鉾巡行の順番を巡って争いがおきたため、当時の侍所の役人(開闔)であった頼亮私宅で籤取りを行ったと伝えられており、現在もこの神事は、当代の京都市長が裃姿の松田頼亮役として参加するものとして続いている。また、応仁の乱以前の60基(前祭32基、後祭28基)の山鉾を知る唯一の史料とされている過去の記録をまとめた「祇園会山鉾事」(八坂神社文書)を残しているほか、町人主体の祭りとなるよう祇園執行に取り計らうなど、祇園祭の再興に尽力し、頼亮も自身の在職中に祇園祭が再興されたことは冥加であると記している。 時代祭において織田信長の「織田公上洛列」の先頭で馬に乗り登場する立入宗継(応仁の乱による荒廃した京都の復興のため織田信長に上京を促し、皇室の威儀を回復させた人物。皇室からの恩典によって、宮中の禁裏内道場として発足した清浄華院内に立入宗継旌忠碑が建てられている。)を輩出した立入家には松田丹後守および豊前守関連の史料が伝来しており、年代的な齟齬があるものの立入家系図によれば松田豊前守頼亮の子孫であると記され、近江立入城は、文明年間(1469-87)松田丹後守秀興によって築かれたとされる。 丹後・日ケ谷城(宮津市)の城主松田頼盛(六波羅引付衆)の末裔に、松田氏は桓武平氏の一流とする家系図「丹後松田系図」が所蔵され、丹後守流、若狭守流、豊前守流、対馬守流などの奉行衆が同族であることが記されている。また頼盛の娘千手姫(甥の弾正左衛門尉貞頼の猶子となり藤原公親に養われた)は後宇多天皇に仕え、後に天皇が出家した際には自身も出家して尼となり名を願蓮と改め、後宇多天皇より金剛心院の院号と本尊愛染明王坐像を賜ったという。その他にも、稲富氏(稲富流砲術の開祖稲富一夢を輩出)、国富氏、延永氏(丹後守護代)、毛呂氏などと姻戚関係があったことが記されている。松田山城守頼通は細川藤孝に日ケ谷城を焼かれたあと松田氏系図では丹波国へ引退とあり、また与謝郡史等では小浜城主木下若狭守勝俊の家士となったとある。 俵屋宗達を育て上げ、「寛永の三筆」の1人に数えられる光悦流の祖であり、茶人、工芸家、画家、出版者、庭師、能面打など多彩な方面で活躍した芸術家、本阿弥光悦を輩出した本阿弥家の六代当主(光悦の曽祖父)は松田氏の出身である。但しその出自については、本阿弥系図にある「足利義教昵近ノ士」という記述に、当時の側近には奉行衆の名前しか見られないこと(6代将軍 足利義教の1428年 ~ その子8代将軍 足利義政の1473年までは近臣として奉行衆を基盤としていた)、足利義教の在職が1428年 - 1441年であるのに松田右衛門三郎の出生が1434年であること、本阿弥という屋号、奉行衆と奉公衆を同一族と誤認していた過去の資料、などにより混乱を招いていたが、足利尊氏に仕えていた初代妙本については本姓菅原氏で苗字を松田とした人物であり、六代当主本光は侍所の開闔や政所の執事代を勤めた奉行衆松田氏から本阿弥家の娘婿として迎えられた人物と考えられている。なお、南北朝末期に松田三郎右衛門尉が丹後における段銭両使一方に起用されており、このころより丹後松田氏には三郎右衛門尉を名乗る一流が存在したことが確認でき、松田右衛門尉は代々足利幕府の御産所奉行を継承していたほか、対馬守秀藤、能登守亮致らも右衛門尉を称していた。なお、光悦と同じく琳派の芸術家である尾形光琳・乾山兄弟の曾祖父・道柏の妻(法秀)は本阿弥光悦の姉であり、光悦と光琳は遠い姻戚関係にあることになる。また光悦の白楽茶碗「不二山」(国宝)にも関わったと考えられる楽焼の家元・樂家の養子となった宗入(5代目当主)の曽祖母も法秀であり、光琳・乾山とは従弟同士となる。 丹後松田氏の拠点があったと推測される京丹後市大宮町には、善王寺他に複数の城を築いていた記録があり、河辺の松田千軒と呼ばれる集落跡を見下ろす山には、数十にも上る古墳群と共に松田城跡も確認されている。また、鎌倉末期に至ってはその所領は丹後のみに留まらず、但馬国新田荘(兵庫県北部)、若狭国鳥羽上保・多烏田(福井県小浜市、上中)、船井荘新江村(京都府船井郡)、安芸志道村(広島県広島市)、豊前髙来村(福岡県豊前市)などに展開していた。 京丹後市の中郡、竹野郡、熊野郡を流れる竹野河流域一帯には一色氏に仕える摂津守、遠江守らの松田氏の存在が知られており、本能寺の変による細川氏と明智光秀・一色軍との戦いにも加わっていたとされる。なお信長公記には「丹後の松田摂津守、隼巣子二つ進上」とあり、この約1か月後に織田軍は丹後に乱入したとされる。松田摂津守(黒部城城主)は惣見記には「松田盛秀」との所伝あり。
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