奉行衆松田氏とは? わかりやすく解説

奉行衆 松田氏(桓武平氏流)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 00:48 UTC 版)

松田氏」の記事における「奉行衆 松田氏(桓武平氏流)」の解説

鎌倉後期より多数六波羅奉行人出し室町時代には二階堂氏波多野氏並んで室町幕府評定衆列した松田氏がいた。応永年間には政所執事代として史上現れる者もおり、松田満秀・松田秀興・松田数秀らは奉行人筆頭公人奉行任じられる応仁・文明の乱以後松田数秀・松田長秀・松田清秀・松田晴秀らが政所寄人筆頭である政所執事代任じられ飯尾氏清氏とともに幕府奉行人として永禄年間1558年 - 1570年)に至るまで活動していた。 この一族代々文筆官僚であったことから現在でも東寺百合文書国宝ユネスコ世界記憶遺産)などに多数書状現存しており、「松田丹後守平長秀記」「武政軌範」などの書物のほか、和歌長じているものも多く、「松田丹後守平貞秀集」などの和歌集残している。「松田丹後守平長秀記」は足利義満足利義教元服時の記録など書き残したものであり、長秀自身政変により殆どの奉行人更迭された中で、彼一人新政権下引き続き出仕した事実は、その能吏ぶりが余人替え難かった考えられており、幕府官僚としての活動のほかに香人としての顔を持つ文化人でもあった。「武政軌範」は各被引用史料相伝した松田丹後守流の史料豊前守流の松田貞頼(=松田貞康)に伝わったものと考えられており、大河ドラマ花の乱』では松田貞頼が足利幕府使者として日野家足利義政日野富子婚礼日取り報告する場面描写されている。 松田豊前守頼亮は、応仁の乱後33年間中断していた祇園祭復興するにあたり山鉾巡行順番巡って争いがおきたため、当時侍所役人開闔であった頼亮私宅で籤取り行った伝えられており、現在もこの神事は、当代京都市長が裃姿の松田頼亮役として参加するものとして続いている。また、応仁の乱以前60基(前祭32基、後祭28基)の山鉾を知る唯一の史料とされている過去の記録をまとめた「祇園会山鉾事」(八坂神社文書)を残しているほか、町人主体祭りとなるよう祇園執行取り計らうなど、祇園祭再興尽力し、頼亮も自身在職中祇園祭再興されたことは冥加であると記している。 時代祭において織田信長の「織田上洛列」の先頭で馬に乗り登場する立入宗継応仁の乱による荒廃した京都復興のため織田信長上京促し皇室威儀回復させた人物皇室からの恩典によって、宮中禁裏内道場として発足した清浄華院内に立入宗継旌忠碑が建てられている。)を輩出した立入家には松田丹後守および豊前守関連史料伝来しており、年代的齟齬があるものの立入家系図によれば松田豊前守頼亮の子孫であると記され近江立入城は、文明年間(1469-87)松田丹後守秀興によって築かれとされる丹後日ケ谷城(宮津市)の城主松田頼盛(六波羅引付衆)の末裔に、松田氏桓武平氏一流とする家系図丹後松田系図」が所蔵され丹後守流、若狭守流、豊前守流、対馬守流などの奉行衆同族であることが記されている。また頼盛の娘千手姫(甥の弾正左衛門尉貞頼の猶子となり藤原公親に養われた)は後宇多天皇仕え、後に天皇出家した際には自身出家して尼となり名を願改め後宇多天皇より金剛心院の院号本尊愛染明王坐像賜ったという。その他にも、稲富氏稲富砲術開祖稲富一夢輩出)、国富氏、延永氏(丹後守護代)、毛呂氏などと姻戚関係があったことが記されている。松田山城守頼通細川藤孝日ケ谷城を焼かれたあと松田氏系図では丹波国引退とあり、また与謝郡史等では小浜城主木下若狭守勝俊の家士となったとある。 俵屋宗達育て上げ、「寛永の三筆」の1人数えられる光悦流の祖であり、茶人工芸家画家出版者庭師能面打など多彩な方面活躍した芸術家本阿弥光悦輩出した本阿弥家六代当主光悦曽祖父)は松田氏出身である。但しその出自については、本阿弥系図にある「足利義教昵近ノ士」という記述に、当時側近には奉行衆の名前しか見られないこと(6代将軍 足利義教1428年その子8代将軍 足利義政1473年までは近臣として奉行衆基盤としていた)、足利義教在職1428年 - 1441年であるのに松田右衛門三郎出生1434年であること、本阿弥という屋号奉行衆奉公衆同一族と誤認していた過去資料、などにより混乱招いていたが、足利尊氏仕えていた初代本について本姓菅原氏苗字松田とした人物であり、六代当主本光は侍所開闔政所執事代勤めた奉行衆松田氏から本阿弥家娘婿として迎えられ人物考えられている。なお、南北朝末期松田三郎右衛門尉丹後における段銭両使一方起用されており、このころより丹後松田氏には三郎右衛門尉名乗る一流存在したことが確認でき、松田右衛門尉代々足利幕府御産所奉行継承していたほか、対馬守能登守亮致らも右衛門尉称していた。なお、光悦同じく琳派芸術家である尾形光琳乾山兄弟曾祖父・道の妻(法秀)は本阿弥光悦の姉であり、光悦光琳は遠い姻戚関係にあることになる。また光悦白楽茶碗不二山」(国宝)にも関わったと考えられる楽焼家元樂家養子となった宗入(5代目当主)の曽祖母も法秀であり、光琳乾山とは従弟同士となる。 丹後松田氏拠点があったと推測される京丹後市大宮町には、善王寺他に複数の城を築いていた記録があり、河辺松田千軒呼ばれる集落跡を見下ろす山には、数十にも上る古墳群と共に松田城跡確認されている。また、鎌倉末期至ってはその所領丹後のみに留まらず但馬国新田荘兵庫県北部)、若狭国鳥羽上保・多烏田(福井県小浜市上中)、船井新江京都府船井郡)、安芸志道広島県広島市)、豊前来村福岡県豊前市)などに展開していた。 京丹後市中郡竹野郡熊野郡流れ竹野河流一帯には一色氏仕え摂津守、遠江守らの松田氏存在知られており、本能寺の変による細川氏明智光秀一色軍との戦いにも加わっていたとされる。なお信長公記には「丹後松田摂津守、隼巣子二つ進上」とあり、この約1か月後に織田軍は丹後乱入したとされる松田摂津守(黒部城城主)は惣見記には「松田盛秀」との所伝あり。

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