寛永の三筆
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室町時代は戦乱につぐ戦乱に明け暮れた時代で、京都の公卿が所領と権威を失い、下国せざるを得ない状態になった。その中で彼らの生活権を保持するものは伝統的な芸能・家職の伝授ぐらいのもので、書道もまた重要な財源の一つとなった。よって、家々は競って書流を立て、おびただしい流派が乱立した。 世尊寺流や飛鳥井流、御家流、勅筆流、あるいは三条流ほか多くの書流名があげられ、その数、50を数えるほどであった。が、どれもが似たり寄ったりの弱々しい書風でしかなく、書流が形式化した。こうした書にあきたらぬものを感じたのが、寛永の三筆と称される本阿弥光悦・近衛信尹・松花堂昭乗の3人であった。 室町時代後期は信長・秀吉・家康が覇権をふるい、豪放闊達を誇った。書流では前述のように一系を保ってきた世尊寺流が断絶し、持明院流が生まれ、三条流が貴族社会に、後柏原院流が皇室に、飛鳥井流が広範囲に流行したが、相変わらず形式の書が主流であった。光悦、信尹、昭乗らは時勢を享受しながらも平安貴族文化の高尚優雅な古典に強く憧れ、しかも、その模倣にあまんずることなく、それぞれ天与の才能と個性を発揮し斬新な世界を創り出した。信尹の大字仮名はその先鞭をつけ、続く光悦の大胆な新しい美、昭乗の上代様は柔軟で人好きのする書と、寛永の三筆によって安土桃山時代・江戸時代前期の書は和様を中心として復興したのである。 光悦の書を光悦流、信尹は近衛流または三藐院流、昭乗は松花堂流または滝本流と呼ばれ、江戸時代初期にかなり流行し、木版本手本が刊行されるなど一世を風靡した。しかし、これらの先達の没後、その業績を継承してさらに発展させることのできる人材が続かなかった。寛永の三筆は日本書道史上に咲いた狂い咲きの花のようなもので、それらが散った後はまた元に戻ってしまったのである。
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