寛永の造り替えから幕末
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 13:55 UTC 版)
日光東照宮の造営に伴い、寛永6年(1629年)に架け替えが行われたものの、日光東照宮の大造替に伴い、日光山の入り口にふさわしい橋とすべく、寛永13年(1636年)にも架け替えが行われた。この時に現代に残る橋と同じ姿となり、神橋と改名した。大工のべ4.5万人、雑役のべ13.6万人を動員し、約6,000両を投じた事業であった。橋桁に用いた7間(≒12.7 m)のケヤキ材11本は、小百(現・日光市小百)や船生(現・塩谷町船生)から切り出し、1本当たり500両かかったという。この時に採用された石造の橋脚を切石で補強する工法は、京の三条大橋などで使われたばかりの当時としては最先端の土木技術を投入したものであった。 同時に日光社参の徳川将軍と日光修験の山伏だけが渡ることを許される神聖な橋となり、通常は橋の両端に欄楯(らんじゅん)を建てて通行を規制した。このため一般庶民は神橋のそばに架けられた仮橋を渡った。仮橋は文字通り仮の橋であったが、恒久的な橋となった。神橋は江戸時代だけで14回の改築が行われ、仮橋も修繕や架け替えを行いながら維持された。
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