寛永以後とは? わかりやすく解説

寛永以後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 13:55 UTC 版)

神橋」の記事における「寛永以後」の解説

寛永13年1636年)の造り替え以降複数桔木から「乳の木」と呼ばれる太い橋桁代え切石橋脚にし、その上に木造朱塗り反り橋載せた構造変わった橋脚石造りにしたのは、当時としては先端土木技術であった装飾金具和風高欄両端袖高取り付けたのも寛永以後のことである。ただしこの時点では塗装行わない白木素木)のままであり、塗装を行うようになったのは寛政4年1792年以降のことである。塗装橋桁黒漆木部朱漆塗りにしている。 乳の木方式への変更は、総重量体積減少組立簡便化などに成功したが、洪水による橋脚流失危機増大することとなった洪水による流失前年書かれた『日光名所図会』によると、神橋長さ13間5尺余(≒28.8 m)、幅は3間4尺余(≒6.67 m)で10基の擬宝珠があり、金物はすべてめっきの斜子彫(ななこぼり)であった2003年平成15年発行の『とちぎの土木遺産』では長26.42 m、幅員6.00 m、高欄高2.27 mとある。日光二荒山神社による公称数値28 m、幅員7.4 m、水面からの高さ10.6 mである。 乳の木3本ケヤキでできており、一方端部固定されカンチレバーである。より正確には、右岸南岸)側の乳の木全長3分の1土中埋まっているが、左岸北岸)側はすぐ先が道路国道120号になっているため、コンクリート製控え橋台の上乳の木を置く形を採っている。乳の木風雨からの保護のため小屋根かけられその上に床版敷かれている。この小屋根おかげで乳の木改修工事後も交換されずに使われている。 現行の1904年明治37年)の竣工で、擬宝珠1基を除きすべて新し部材調達して架橋された。乳の木用材栃木県内だけでなく茨城県真壁郡まで探し求め橋脚用石材は大谷川やその支流稲荷川沿岸調達した1956年昭和31年)の修理乳の木以外の木材はすべて交換されており、明治竣工そのまま残っているわけではない

※この「寛永以後」の解説は、「神橋」の解説の一部です。
「寛永以後」を含む「神橋」の記事については、「神橋」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「寛永以後」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「寛永以後」の関連用語

寛永以後のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



寛永以後のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの神橋 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS