寛永大火と松平信綱の改革
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「川越市の歴史」の記事における「寛永大火と松平信綱の改革」の解説
寛永15年(1638年)1月28日、川越の城下町を大火が襲った。この大火で、城下町の3分の1が焼け、5年前に完成した喜多院の建造物も山門を除いてすべて焼失した。 その翌年の1639年に島原の乱で川越藩主に栄進し、老中にもなった松平信綱は、大火後の復興で十ヶ町四門前郷分の行政区画を定めた。十ヶ町には商人街として上五ヶ町(本町・江戸町・高沢町・南町・北町)を、職人街として下五ヶ町(上松江町・多賀町・鍛治町・鴫町・志多町)を指定し、両町はそれぞれ交替で町の祭り・道普請などに当たった。また四門前は養寿院、行伝寺、妙養寺、蓮馨寺の門前とそれを取り巻く道を指し、郷分は川越城下に隣接する松郷、脇田、野田、小久保、東明寺といった村分に属する商業集落を指した。この十ヶ町四門前郷分が川越の街並みの主要な軸となり現在の川越につながる都市計画の基盤が確立された。 信綱は産業開発や土木事業を積極的に行った。川越街道や新河岸川を整備し、川越領内の産物を江戸に運搬できるようにした。これらは、信綱の父・大河内久綱にならったものである。この頃に、現在の川越市街地の基礎がつくられた。1653年には信綱によって多賀町に時の鐘が作られた。 また農業も振興させ、大麦との二毛作や木綿作を認め、漆・楮・桑・茶の「四本」をはじめとする換金作物を大量に植えさせた。
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