寛永寺橋工区
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寛永寺橋工区は寛永寺橋立坑から日暮里立坑までの区間で、東京起点5キロ085メートルから5キロ569メートルまでの延長484メートルを西松建設が請け負った。シールドトンネルの外径は下谷工区と同じく12.66メートルである。 寛永寺橋工区では、下谷工区においてトンネル断面上部にあった崩壊性の砂層は、トンネル下部に現れるようになる。基礎杭処理のために特殊シールド形式を採用できず、こうした砂層の対策に補助工法が必要とされたのは、下谷工区と同様である。寛永寺橋工区では、圧気工法と薬液注入工法の併用が選択された。ただし、発進部では立地条件の問題により圧気が不可能であることは下谷工区と同様であり、発進部を60メートルにわたって柱列連続杭で囲んで水を抑制しつつ、薬液注入を実施することにした。 寛永寺橋工区においても薬液注入に当たっては、在来線10線の線路下を横断する部分で地上からの注入作業が不可能であったため、パイロットトンネルを建設した。寛永寺橋パイロット立坑は京成電鉄線と国鉄在来線に挟まれた位置にあり、ここから寛永寺橋立坑へ向けて延長135メートルをシールド工法で掘削した。こちらでは下谷工区のパイロットトンネルと異なり、トンネル完成後には防災設備としてパイロットトンネルを利用することにしたため、本トンネルの断面の外に掘削されることになった。本トンネルの上部から掘進を開始するが、防災設備としての利用上は本トンネルの側面に連絡する必要があるため、次第に本トンネルの側面に下っていくスパイラル状の線形を採用することになった。防災設備としての有効断面の要求から、パイロットトンネルの外径は4.3メートル、内径は3.9メートルで、また薬液注入の目的で一時的に使用するならばスチールセグメントの方が経済的であったが、将来的な有効活用の目的で鉄筋コンクリートセグメントを採用した。通常要求されるトンネル外径の2倍の土被りはなく、5メートル程度であった。また直上は在来線であり、そこに曲線半径40 - 60メートル程度、勾配は35から341パーミルにおよぶ最大突っ込み角度28度のトンネルを掘削する大変困難な工事で、平均日進1.3メートルで全行程に120日を要した。また、谷中霊園内では空地と霊園道を借地して地上から下向きに薬液注入を実施した。 寛永寺橋工区のシールド発進立坑となる寛永寺橋立坑は、立地条件から都道寛永寺橋の橋の下に設けられることになった。このために桁下の空間は5メートル程度しかなく、一般的な立坑土砂搬出設備を設置することができなかった。これに対応して、日本で初めての土砂の空気圧送装置を採用した。 寛永寺工区のシールドマシンも下谷工区と同様の理由で半機械式手掘りシールドを採用した。外径は12,820ミリ、長さは9,260ミリである。こちらではカッティングムーバブルフードは1,200ミリのものを12本装備し、カッティングスライドデッキは装備しなかった。一方土留スクリーンジャッキを4本備えた。これはトンネルの下部に滞水性の砂層が現れるため、シールドマシンの掘削・推進時以外は流砂現象を防止するためにスクリーンを展開できるようにしたものである。寛永寺橋工区においても、寛永寺橋の直径1,000ミリの基礎杭が32本、トンネル断面に支障しており、受け替えを行った。 1983年(昭和58年)7月15日に、日暮里立坑の手前において貫通式が行われ、関係者が参列してシールドマシンの最終推進と残区間の貫通発破が行われた。これにより第2上野トンネルの全区間が貫通した。 寛永寺橋工区は1981年(昭和56年)3月24日に着手し、1984年(昭和59年)5月30日に竣工した。基礎杭の切断にかかった時間を含めなければ、寛永寺橋工区は平均日進1.8メートルであった。寛永寺橋工区の工費は約87億4000万円であった。
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