下谷工区
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下谷工区は下谷立坑から寛永寺橋立坑までの区間で、東京起点4キロ337メートルから5キロ085メートルまでの延長749メートルを佐藤工業が請け負った。シールドトンネルの外径は12.66メートルあり、これは建設当時としては世界最大級のシールド工事であった。 下谷工区で建設する区間の地質は、シールドトンネルを非常に施工しづらいとされる粘着力が低く崩壊性の砂層がトンネル上部にあり、地盤改良の対策が必要であった。また水頭にして17メートルに及ぶ地下水が滞水していたが、周辺で多数の井戸が使用されていることから、井戸枯れへの配慮が必要とされた。こうしたことから、切羽(トンネル工事の最前端部)が崩壊するのを防ぐための工法の検討が行われた。第2上野トンネルでは、トンネル上部に存在する建物の基礎杭がトンネル断面に支障しており、杭を切羽において切断除去しながら施工する(アンダーピニング)必要があることから、泥水加圧式や削土密封式といった特殊なシールド工法を採用することができず、補助工法が必要となった。地下水位が高く粘着力のない砂層における安定化対策としては、粘着力を与え、水圧を制御するという2点を考慮する必要がある。このために薬液注入工法、凍結工法、圧気工法、地下水位低下工法といったものが考えられた。地下水位低下工法は、地下水をくみ上げて水位を低下させる方法であるが、周辺の井戸への影響があり、また安定化の信頼度が低いことから採用されなかった。圧気工法は、シールド内の気圧を上げて地下水の制御を行う工法であるが、シールド発進部では圧気の設備の設置に用地的・工期的な問題があった。薬液注入工法は砂の粘着度を高める薬液を注入する工法であるが、これ単独では安定化の信頼度が低いと考えられた。結果的に、シールドを発進させる初期区間では、冷凍管を地盤に巡らせて冷却することで地盤を凍結させる凍結工法と薬液注入工法を併用し、トンネルをある程度掘削した段階でトンネル内に圧気設備を設けて圧気工法と薬液注入工法の併用に切り替える方法が採用された。 薬液注入に当たっては、下谷工区の現場では地上に幹線道路が通っており建物も多く建ち並んでいることから、地上からの薬液注入は困難であった。このため中間付近にある私有地を借地して下谷パイロット立坑を建設し、ここから双方向へ、下谷立坑側へは176メートル、寛永寺橋立坑側へは455メートル、外径3.55メートル、内径3.3メートルのパイロットトンネルをシールド工法で建設した。セグメントは施工性の良いスチールセグメントを7分割式ボルト止めで施工した。下谷工区のパイロットトンネルは、本トンネル断面内に建設した。建設後、パイロットトンネル内から周辺の地盤に対して薬液注入を実施した。 シールド発進位置となる下谷立坑は、他にまとまった適地がなかったことから、上野駅に隣接する台東区道上に建設された。立坑の内空寸法は、横幅がシールドの外径である12.66メートルに加えてシールド発進時にシールドマシンが通過する部分の壁を撤去しても強度が保てるように余裕を考えて、16メートルとした。長さ方向はシールドマシンの長さ9.5メートルに余裕を加えて14メートルとした。またシールドの発進基地には、建設時に使用するセグメントの倉庫や受電設備、ブロア設備などが必要であるが、道路上の占有は最小限にするように行政から指示を受けていたため、道路の下に立坑以外に約690平方メートルの地下基地を設けた。掘削に当たっては、明治維新前は墓地であった場所であるため、遺体が発見されるなどして処置に苦慮することになった。 本坑掘削に使うシールドマシンは、前述したように本坑断面に露出する基礎杭の切断を行う必要があることなどから、半機械式手掘りシールドを採用した。シールドマシンの外径は12,840ミリ、長さは9,300ミリあり、総重量は1,150トン、ジャッキ推力は12,000トンであった。シールドマシンには、カッティングムーバブルフード (CMH) とカッティングスライドデッキ (CSD) を装備した。CMHはシールドマシンの最上部に取り付けられた、貫入装置を持った特殊フードで、幅380ミリ、高さ520ミリのフードをシールド先端から最大1,300ミリ地山に貫入でき、切羽面の地質に応じて出入りさせることで切羽面の安定を図るもので、合計22基が装備された。これにより、支障杭を切断するに際して杭周りを先掘りし、杭を抱え込むようにすることで、容易に掘れるように対策された。CSDはシールドマシン中段に配置されたCMHと同様の自動貫入式スライドデッキで、幅380ミリ、高さ500ミリのデッキを先端から1,300ミリまで貫入させ、あるいは500ミリまで後退できる。合計18基装備され、切羽の土質に応じて出入りさせることで切羽面を上段・下段に分割して、滑り崩壊を防止する役割を果たす。セグメントは、Kセグメントを含めて1リング13分割で、1ピース長さ約3メートル、幅1メートル、厚さ55センチ、重さ約4.5トンである。 立坑からシールドを発進させるにあたっては前述した通り、凍結工法を採用した。立坑の発進部から15.5メートルまでの掘進を対象とし、そこで一旦シールドマシンを止めて約1か月かけて圧気設備の設置を行って、圧気工法への切り替えを行った。このシールドマシン停止期間の切羽防護のために、切羽からさらに2メートルの範囲で壁状に凍土を構築した。凍土の構築は、凍結管を地中に差し込んでその中を冷却液を循環させることで行った。発進から1メートルの範囲では、トンネルを門型に囲うように凍土を構築し、1メートルから15.5メートルまでの区間では厚さ約4.5メートルの凍土をトンネル天井部を囲うように構築した。15.5メートルから17.5メートルまでの区間は切羽全体を壁のように覆って、シールドマシン停止期間の安定化策とした。凍結土量は約3,000立方メートルで凍結期間は約9か月であり、ブライン方式の凍結工法が採用された。この凍結区間は道路上と一部道路の脇にはみ出して作成された。凍結工法は、凍結によって地面が変状することがあり、今回の凍結区間では直近に9階建てのビルがあったことから変位を定期的に測定したが、特に問題なく工事が完了した。 工事にあたっては、前述したようにトンネルの通過する土地に建てられている建物の基礎杭がトンネル断面に支障している場所があった。直接基礎杭が断面に露出している建物が2件、トンネル天端近くに達している建物が5件、この他に寛永寺橋の橋台2基と橋脚5基も支障していた。支障杭は径が800ミリから1,500ミリで、合計108本であった。基礎杭が支障している2件については、1件はビルを買収して撤去したが、もう1件の日伸ハイツマンション(鉄筋コンクリート11階建て、総重量5,380トン)については、あらかじめトンネルの両側に新設基礎を構築して荷重を受け替えて、シールドマシン通過時に元の基礎杭を切断するアンダーピニングを行った。寛永寺橋についても、基礎杭をトンネル外側に新設して受け替え、従来の杭を切断除去した。また盛土となっていた区間についてはラーメン構造に変更した。1本の基礎杭切断には平均3日かかり、合計約100本の基礎杭の撤去を行った。トンネルの天端に基礎杭が接近しているものについては、シールド通過中だけ既設の基礎杭を切断して、新設した耐圧版からジャッキで荷重を受け替え、シールド通過後に再び元の杭に復旧する耐圧版工法を採用した。この工法は下谷郵便局(現在の上野郵便局、鉄筋コンクリート地上4階地下1階建て、総重量12,000トン)含め、合わせて3件で実施した。この他、基礎杭がトンネルからある程度離れているものについては、薬液を注入するなどして周辺地盤を補強している。 下谷工区は1978年(昭和53年)3月20日に着手し、1984年(昭和59年)8月30日に竣工した。これは第2上野トンネルの3工区で最後の完成であった。基礎杭の切断にかかった時間を含めなければ、下谷工区は平均日進2.1メートルであった。下谷工区の工費は約121億5700万円であった。
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