寛永蒲生騒動とは? わかりやすく解説

寛永蒲生騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 16:30 UTC 版)

蒲生騒動」の記事における「寛永蒲生騒動」の解説

寛永7年1630年)、再び蒲生家(伊予松山藩)で重臣抗争起きる。 松山藩重臣仕置奉行家老)に次ぐ大与頭地位にあった蒲生郷喜は父・蒲生郷成以来重臣家中最大禄高あったが、他の重臣との対立から2回も出奔をしたことにより力を失った。ところが、寛永5年1628年)に主君である松山城主・蒲生忠知(忠郷の弟)が幕府仲介で郷喜の義父であった磐城平藩主・内藤政長の娘(正寿院)を娶ることになったことで、忠知と郷喜は義兄弟の関係となり、その力を背景勢力挽回しようとした当時松山藩仕置奉行家老)は郷喜の弟である蒲生郷舎福西宗長岡清長志賀重就の4名であったが、郷舎以外の3名は郷喜の動き警戒して郷喜に次ぐ禄高持ち郷喜と同じ大与頭でもあった関元吉と共に郷喜の排除計画した寛永7年秋、明正天皇即位を祝う使者として蒲生郷喜上洛したのを好機とみた福西らは主君・忠知に郷喜兄弟訴えた一説には直接江戸幕府提訴したとも)。これを知った幕府は、寛永8年に入ると蒲生忠知蒲生郷喜福西宗長関元吉召還、忠知と郷喜及び嫡男源三郎2月までに江戸到着しているが、審議そのもの長期化することになる。 寛永9年7月10日巳刻(1632年8月25日午前9時頃)、江戸城白書院にて御三家当主幕閣らが見守る中、将軍徳川家光御前での当事者同士対決実施された。 『徳川実紀によれば福西らは蒲生郷喜が①幕府許し無く松山城内に新し建設したこと②真田信繁幸村)の娘を自分息子の妻にしたことが幕府対す敵意表れであるとした。これに対して郷喜は①については藩主の忠知より幕閣申請行って事前に許可得ている。②については滝川一積自分の娘であるとして息子に嫁がせており、この訴えがあるまで事実知らなかった、と反論証人として呼ばれた滝川一積福西らの主張事実認めた上で自分真田家縁戚信繁遺族放置することが忍びなく本多正純相談したところ、娘であれば養女として育てて良いとの回答得たのでそのようにした、と証言した。 翌11日になって関係者酒井忠世邸に呼ばれ裁決結果処分通知された。蒲生郷喜主張認められたものの騒動責任を取らされて蟄居を命ぜられ、福西宗長伊豆大島遠島関元吉蒲生領と主要地域から追放されるまた、その後蒲生郷舎岡清長志賀重就騒動責任を取らされて領内から追放となった(『氏郷記』)。また、16日には滝川一積家光勘気被ったことを理由改易されている。蒲生忠知7月26日家光より今後藩政運営に関する注意受けただけで騒動責任問われなかったが、家老にあたる仕置奉行4名全員召し放つ事態陥った寛永11年1634年)、忠知は参勤交代途上京都藩邸急死し蒲生家は改易になった

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