寛永蒲生騒動
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寛永7年(1630年)、再び蒲生家(伊予松山藩)で重臣の抗争が起きる。 松山藩の重臣で仕置奉行(家老)に次ぐ大与頭の地位にあった蒲生郷喜は父・蒲生郷成以来の重臣で家中で最大の禄高あったが、他の重臣との対立から2回も出奔をしたことにより力を失った。ところが、寛永5年(1628年)に主君である松山城主・蒲生忠知(忠郷の弟)が幕府の仲介で郷喜の義父であった磐城平藩主・内藤政長の娘(正寿院)を娶ることになったことで、忠知と郷喜は義兄弟の関係となり、その力を背景に勢力を挽回しようとした。 当時の松山藩の仕置奉行(家老)は郷喜の弟である蒲生郷舎と福西宗長・岡清長・志賀重就の4名であったが、郷舎以外の3名は郷喜の動きを警戒して郷喜に次ぐ禄高を持ち郷喜と同じ大与頭でもあった関元吉と共に郷喜の排除を計画した。 寛永7年秋、明正天皇即位を祝う使者として蒲生郷喜が上洛したのを好機とみた福西らは主君・忠知に郷喜兄弟を訴えた(一説には直接江戸幕府に提訴したとも)。これを知った幕府は、寛永8年に入ると蒲生忠知・蒲生郷喜・福西宗長・関元吉を召還、忠知と郷喜及び嫡男の源三郎は2月までに江戸に到着しているが、審議そのものは長期化することになる。 寛永9年7月10日巳刻(1632年8月25日午前9時頃)、江戸城白書院にて御三家当主や幕閣らが見守る中、将軍徳川家光御前での当事者同士の対決が実施された。 『徳川実紀』によれば、福西らは蒲生郷喜が①幕府の許しも無く松山城内に新しい櫓を建設したこと②真田信繁(幸村)の娘を自分の息子の妻にしたことが幕府に対する敵意の表れであるとした。これに対して郷喜は①については藩主の忠知より幕閣に申請を行って事前に許可を得ている。②については滝川一積が自分の娘であるとして息子に嫁がせており、この訴えがあるまで事実を知らなかった、と反論、証人として呼ばれた滝川一積は福西らの主張を事実と認めた上で、自分は真田家の縁戚で信繁の遺族を放置することが忍びなく本多正純に相談したところ、娘であれば養女として育てても良いとの回答を得たのでそのようにした、と証言した。 翌11日になって、関係者は酒井忠世邸に呼ばれ、裁決の結果と処分が通知された。蒲生郷喜は主張は認められたものの騒動の責任を取らされて蟄居を命ぜられ、福西宗長は伊豆大島に遠島、関元吉は蒲生領と主要地域から追放される。また、その後蒲生郷舎・岡清長・志賀重就も騒動の責任を取らされて領内から追放となった(『氏郷記』)。また、16日には滝川一積も家光の勘気を被ったことを理由に改易されている。蒲生忠知は7月26日に家光より今後の藩政運営に関する注意を受けただけで騒動の責任は問われなかったが、家老にあたる仕置奉行4名全員を召し放つ事態に陥った。 寛永11年(1634年)、忠知は参勤交代の途上、京都の藩邸で急死し、蒲生家は改易になった。
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