寛永諸家系図伝との比較
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 06:08 UTC 版)
「寛政重修諸家譜」の記事における「寛永諸家系図伝との比較」の解説
『寛永諸家系図伝』では、記録を提出した家によって兄弟姉妹の配列順が不統一であるが、『寛政重修諸家譜』においては兄弟姉妹を長幼の順に並べ直す方針がとられた。しかし、『寛永諸家系図伝』の編纂時から歳月を経ていることもあり、完全には修正されていない。 また、日本大学教授の北原章男の解説によれば、江戸幕府の当初の計画では寛政の系譜編纂は『寛永諸家系図伝』の書き継ぎを目的としていたが、新たに諸家から呈譜を募ると寛永の呈譜とは加除の部分や記述に疑義が生じ、単なる書き継ぎに収まらず、元の寛永譜自体に校閲の筆(重修)を入れざるを得なくなったものとする。書名はこの事によって「重修」の語が付けられている。 一方で、今川氏親(義元の父)の子弟の出生順序を確定させようとした駿河台大学教授の黒田基樹は、『寛政重修諸家譜』の今川氏の系譜には戦国時代から江戸時代初期に作成された今川氏の系図や同時代の記録並びに『寛永諸家系図伝』から実在を確認できない人物が含まれており、特に関口氏広室、小笠原春義室、松平親善室(後鵜殿長持と再婚)については『寛永諸家系図伝』作成後に創作された可能性があるとしている。これは重修の過程で後世の創作が挿入される可能性を指摘したものと言える。
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