戦国時代から江戸時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 04:59 UTC 版)
1478年(文明10年)結城直光のころ、水谷勝氏が下館城を築城し、水谷氏代々の居城となった。 1545年(天文14年)、下総国宇都宮氏に備えて6代正村(蟠竜斎)が常陸久下田城を築城。宇都宮氏の攻撃を受けるが撃退する。 勝氏から数えて7代勝俊のころの関ヶ原の戦いの功績により、結城氏から独立して常陸国下館3万1千石を安堵されて城主大名に列した。寛永の高直しによって石高は4万7千石に改められる。 1639年(寛永16年)に備中国川上郡、播磨国美嚢郡内5万石備中国川上郡成羽へ3千石加増で国替え。1642年(寛永19年)に備中国松山5万石へと移封され、松山藩政の基礎を築いた。ちなみに、備中松山城の現存天守は水谷氏の改修によって現在の姿となったものである。 1693年(元禄6年)備中松山水谷家の3代勝美に嗣子なく、弟勝時を後継者としてたてたが、家督相続が許されず除封、大名水谷家は絶家となった。 勝時はのちに、3千石を与えられて旗本として家督を相続し、旗本水谷家は明治維新を迎えるまで存続した。 1536年(天文5年)弁才天信仰が篤かった水谷伊勢守勝隆は、寛永寺を創建した天海大僧正と謀り、上野不忍池に弁財天社(現不忍池弁天堂)を建立する。 上野不忍池に弁財天社(現不忍池弁天堂)を建立すると同時に水谷家の下屋敷(現台東区竜泉)内に屋敷神として弁財天を祀ったのが、朝日弁財天(水乃谷弁天院)として祀られ、現在は下谷七福神の弁財天となっている。
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