戦国時代〜江戸時代
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「慈恩寺 (寒河江市)」の記事における「戦国時代〜江戸時代」の解説
応仁元年(1467年)に応仁の乱が始まると室町幕府の衰微が明らかとなり、東北地方においても国人領主の台頭が顕著になる。文明11年(1479年)伊達氏が寒河江城を攻めるが、寒河江氏一族の結束に乱れがあり、慈恩寺弥勒堂に誓紙を納めている(『幹縁疏』)。この時は冬の厳しさにより干戈を交えず撤退した伊達氏だったが、文明12年1480年)に再び侵攻すると菖蒲沼(現:寒河江市大字寒河江字菖蒲沼)付近で激闘となり、寒河江氏は伊達側大将桑折播磨守を討ち取っている。同年、桑折播磨守の菩提を弔う時宗松蔵寺が開かれ、後に最上院滅罪の寺となった。永正元年(1504年)、山形城主最上義定が寒河江領に攻め入り、兵火により一山仏閣、坊舎が悉く焼亡してしまう。これと同時に宝物も散失してしまったが、本堂の諸仏は難を逃れ1躯も焼失しなかった(『瑞宝山慈恩寺伽藍記』)。仮本堂が築造されるが、寒河江氏において白岩氏・溝延氏・左沢氏などの庶流が独立傾向を強めたことや、伊達氏・最上氏の抗争に度々巻き込まれたことから往時の本堂を再建する余力はなく、再建は江戸時代を待つことになる。天文年間(1532年 - 1555年)に葉山との関係を断ち、これ以降は三合山(十部一峠)を奥の院とした。このことが契機となり葉山修験は次第に衰退し、江戸時代には出羽三山から葉山が外れることになる。天正11年(1583年)最上氏は庄内武藤氏(大宝寺氏)の攻略を企図し、武藤義氏は家臣前森氏に謀反を起こされてしまう。寒河江高基は義氏救援のために六十里越を庄内に向けて進軍したが、途中で義氏自害の報に接し、引き返している。この時、高基は大綱注連寺より三千仏の画像三幅対を持ち帰り、慈恩寺弥勒堂に寄進した。天正12年(1584年)最上氏の攻撃により高基が自害し寒河江氏が滅亡すると、慈恩寺は最上氏の庇護を受けるようになり、所領は黒印地として安堵された。 寒河江元時 元高 高重 広重 為広 知広 宗広 孝広 幸道 広種 兼広 高基 出羽吉川氏 省略 元綱 隆広 良光(安中坊) 慶長5年(1600年)、山形城主最上義光は関ヶ原の戦いに際して、慈恩寺に対して「立願状」を出して戦勝を祈願した。江戸時代に入った慶長11年(1607年)に最上義光が三重塔を築造し、慶長16年(1611年)には慈恩寺領の指出検地を行った。『最上義光分限帳』によれば2,889石だったという。元和4年(1618年)、義光の孫の義俊の時、本堂の再建が完了した。元和8年(1622年)に最上氏が改易になると、慈恩寺領と衆徒所有の土地が幕領となってしまう。一山は幕府による寺領の安堵を求めて同年、寺領存続の願書を提出する。願書は翌元和9年(1623年)許可されるが、別当坊(池本坊、後の最上院)は江戸幕府での宗教政策に強い影響力を持つ南光坊天海に接近し、慈恩寺を高野山南光坊(天台宗)直末とする請願をして許される。華蔵院と宝蔵院は改宗に反対して長年にわたり抗争を続けたが、寛永19年(1642年)、別当坊は上野東叡山寛永寺の末寺となって最上院と改め、天台宗に改宗する。その後も双方の争いは続き、寛文2年(1662年)に幕府の裁定により争いはようやく終結する。慈恩寺は真言宗・天台宗兼学の寺院として存続することになった。この裁定により、寛文5年(1665年)、幕府は御朱印状を下付し、最上院は一山で最多である687石余の御朱印地を受け、一山の寺領は18ヵ村にまたがり東北随一となる2,812石3斗の御朱印高を有した。一山は3ヵ院を中心として多くの子院・坊・末寺を抱え、東北における真言宗・天台宗の中心的な寺院であった。 江戸時代前半の本堂再建以降、本堂宮殿(くうでん、「厨子」と同義)内に秘仏として本尊弥勒菩薩像及び30数体の仏像を安置したが、本尊以外の仏像は享保10年(1725年)の時点で忘れ去られ、既に失われたと考えられていた。これらの諸仏が再発見されるのは第二次世界大戦後の事である。 文政3年(1820年)、隣家からの類焼により三重塔が焼失した。一山寄合のうえ、文政8年(1825年)に幕府へ再建願いを出して許され、文政13年(1830年)に完成した。なお、本尊の大日如来は焼失を免れた。
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