戦国時代から安土桃山時代とは? わかりやすく解説

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戦国時代から安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/15 08:26 UTC 版)

矢部氏」の記事における「戦国時代から安土桃山時代」の解説

永禄初年目安矢部氏本家筋が復活次郎の乱から続く因幡毛利氏との親密な関係を基に但馬山名氏反抗、度々、南因幡周辺合戦行ったまた、矢部氏天文年間因幡毛利本家山崎毛利氏謀略以って滅亡させたときにもこれに加担している。 永禄12年1569年5月尼子勝久山中幸盛尼子再興目指し挙兵若桜方面より因幡侵攻した矢部氏はこの時、尼子氏にくみして鬼ヶ城一部尼子軍駐屯させ、同年11月には毛利信濃守らと鳥取城武田高信攻撃した天正年間になり吉川元春因幡進出する矢部氏はこれに従った天正2年1574年)、毛利氏因幡から退くと尼子氏は再び侵入天正3年1575年6月播磨国に近い若桜を目につけた山中幸盛謀略をもって城主矢部氏生け捕り落城させた。この時をもって矢部氏滅亡したといわれており、後に若桜周辺帰農したと考えられている。

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戦国時代から安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 21:28 UTC 版)

鷹取城」の記事における「戦国時代から安土桃山時代」の解説

戦国時代には大友氏家臣である鎮実が城主となった天文11年1542年)、大友氏から大内氏寝返った鎮実は、大友義鎮1万3千の大軍攻められ落城。鎮実は降伏する。鎮実はその後大友氏家臣鷹取城主として戦うが、天正8年1580年)に猫城攻略失敗するなど、目立った戦功は無い。 その後豊臣秀吉九州征伐があり、鷹取城を含む筑前の地は小早川隆景領土となるが、その間詳細不明である。

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戦国時代から安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 10:10 UTC 版)

色川氏」の記事における「戦国時代から安土桃山時代」の解説

永禄5年(1562年) 色川盛直紀伊国人衆として畠山高政従い畿内侵攻教興寺の戦いに参陣した天正2年(1574年)~天正6年(1578年) 色川郷、鎌ヶ峯城色川盛直堀内氏善攻められるがこれを撃退した天正13年(1585年) 豊臣秀吉による紀州攻めにおいて、堀内氏善降伏する色川氏上方勢に帰順し領地安堵された。 文禄元年(1592年) 文禄の役において色川連衆色川三九郎藤堂高虎に従って軍船で参陣した慶長5年(1600年) 関ヶ原の戦いにおいて色川三九郎西軍従い牢人となる。 元和5年(1619年) 色川氏紀州藩主徳川頼宣附家老新宮城主、水野重央仕えた

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戦国時代から安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/13 02:14 UTC 版)

因幡毛利氏」の記事における「戦国時代から安土桃山時代」の解説

天文から永禄年間にかけて、因幡毛利氏次郎の乱以降与党化していた矢部氏などと共に但馬山名氏支配反抗私部表などで但馬山名氏迎え撃ったまた、天文11年1542年)から同15年1546年)にかけて一族山名氏との関係を深めていた山崎毛利氏滅亡させ、当時因幡進出してきた尼子氏連携永禄12年1569年)、毛利信濃守矢部氏丹比氏、用瀬氏などと共に鳥取城武田高信攻撃した天正年間になり、尼子氏に代わって安芸毛利氏勢力がこの地に及んでくると、最後当主毛利豊元安芸毛利氏傘下入った。豊元は子息松千代丸を人質差し出し織田氏進出を防ぐことになったが、天正8年1580年5月豊臣秀吉率い織田軍が因幡侵攻すると、私部城にいた豊元らは鳥取城撤収した翌年10月鳥取城吉川経家切腹により開城すると豊元は行方不明となり、200余年続いた因幡毛利氏はここに滅亡した

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戦国時代から安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 19:37 UTC 版)

禰寝氏」の記事における「戦国時代から安土桃山時代」の解説

この頃までの禰寝氏は、大隅国国人の中では島津氏寄り姿勢とっていたが、その後島津氏早世する当主が相次ぎ、その権威の低下をついて、隣に領地構え肝付氏攻撃激しくなってくる。禰寝清年当主であった享禄3年1530年)、肝付兼興禰寝領へも侵攻開始したがこれは撃退することに成功している。天文12年1543年)には種子島恵時との戦いに勝ち屋久島領地とするが、これは翌年には奪いかえされることとなり、以後種子島氏との対立激化する種子島氏側(『種子島家譜』)ではこれを「根占(禰寝戦争」と呼び重視するが、これに関わった禰寝一族の根占(禰寝)龍善の名は禰寝氏史料からは消されている。 清年の後を嗣いだ禰寝重長琉球との交易産業振興領内拡充を図る一方領地拡大をもめざし、戦国大名として成長していくことになる。この過程種子島氏島津氏後ろ盾したため対抗上、禰寝氏対立していた肝付氏連合を組むこととし永禄4年1561年)の廻城の戦いで肝付兼続側に付いている。その後肝付氏伊地知氏らと連合し海軍率いて鹿児島奇襲するが、これは島津氏側の必死防戦により失敗したこの頃禰寝氏勢力が一番大きかった時代いえようこの頃島津氏当主義久に代わっていたが、悲願の薩隅日統一のためには肝付氏への対抗禰寝氏との連合不可欠であることを痛感し、重長にたびたび使者派遣し調略島津氏勢い悟った重長は義久説得攻勢屈することとなり、以後島津氏配下武将となった。重長が島津氏側に寝返ったことを知った肝付兼続は、以後禰寝領に激しく攻撃仕掛けてきたが、重長はそのたび島津氏からの援軍得て撃退成功している。 重長の跡を嗣いだのは息子禰寝重張(重虎)で、島津氏配下武将として活躍していた。しかし、文禄5年1596年)の文禄検地により、島津氏配下武将のほとんどが先祖伝来土地からの領地替え命じられる禰寝氏例外ではなく鎌倉時代から支配していた南大隅から引き離され薩摩国吉利郷(現・鹿児島県日置市日吉町吉利)に遷(うつ)される。このことは禰寝氏運命転換点となる。庄内の乱後、北郷氏など多く領主旧領に戻る中で、禰寝氏二度と旧領戻されることはなかった。

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戦国時代から安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 05:27 UTC 版)

深溝松平家」の記事における「戦国時代から安土桃山時代」の解説

その後深溝城主であり続けた2代松平好景3代松平伊忠徳川家康岡崎城での独立期から善明堤の戦いなどで働き示し続けた4代松平家忠(家忠日記著者)は酒井忠次指揮下に組み込まれるが、「長篠の戦い」などで功を挙げた天正8年1590年)の徳川家関東移封で、家忠は武蔵忍に1万石を与えられている。しかし慶長5年1600年)、関ヶ原の戦い前哨戦であった伏見城の戦い」において、守将・鳥居元忠副将格として伏見城籠城玉砕している。 3代・伊忠以来主殿助4代・家忠からは主殿頭)の通称用いていたため、松平主殿家とも言われる

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戦国時代から安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 18:45 UTC 版)

島津氏」の記事における「戦国時代から安土桃山時代」の解説

15代貴久(伊作氏出身)は内城築き修理大夫に任ぜられた。また、嫡男(後の義久)に将軍義輝より偏諱受けている。貴久の嫡男である16島津義久の代には、日向大名であった伊東氏駆逐し戦国大名として薩摩国大隅国日向国三州再々統一成し遂げた1578年天正6年以降幕府鎮西管領であった豊後国大名大友宗麟日向領に征討繰り返したが、これに対して義久は自ら出陣し九州雌雄決した耳川の戦いでは圧倒的な勝利を収め大友軍を撤退させた。大友氏はこれにより九州北西部での勢力減じ大友氏菊池氏代わり守護となっていた肥後国でも、名和氏城氏島津氏に誼を通じた義久天草五人衆従属させ宇土半島阿蘇氏駆逐し名和氏城氏への支援路を確保し九州北部制覇への足掛かり築いた。さらに1581年天正9年)には人吉藩相良氏降伏させた。 肥前国では大友氏勢力落としたのち、戦国大名龍造寺隆信強大な勢力誇っていた。この龍造寺氏圧迫されていた大名有馬晴信また、島津義久助力求め書状を送る。1584年天正12年)、義久末弟島津家久全軍指揮任せ肥前島原半島派遣家久沖田畷の戦いでは龍造寺軍を戦巧な戦いで撃破し大将隆信の首を討ち取るという殊勲をあげる。沖田畷の戦い以後大友氏から龍造寺氏へと鞍替えしていた九州北部豪族達が島津氏方に転じ、残る肥後国北中部阿蘇氏、またその被官である甲斐氏拠点陥落させた(豪族としての矢部氏阿蘇氏滅亡しその後大宮司家として再興)。島津軍瞬く間九州全土快進撃行えたのは、戦略性を持つ統制取れた機動力戦術眼、また鉄砲存在、それを実戦で培い磨き上げた高度な鉄砲戦術大きかった考えられる1586年天正14年)には、義久は3人の弟(島津義弘・歳久・家久)や優秀な家臣団使いこなし大友氏本拠である豊後国にも侵攻した臼杵城における丹生島城戦いでは、大神氏庶流の武宮親實のフランキ砲戦術により家久撤退したが、島津氏筑前国豊後国一部を除く九州全土手中にし、最大版図勢力を築くこととなった。 しかし、義久らは豊臣秀吉停戦命令に服さなかったことから、大友宗麟嘆願により、九州平定を受ける。九州平定前哨戦となった戸次川の戦い等では、島津軍圧倒的な勝利を収める豊臣連合軍一方的な敗北期したことから、秀吉第二波攻防では自ら出陣する決心をし、朝廷での関白地位利用し40か国に近い諸国から25万人もの大量兵力動員した義久秀吉軍の日向からの侵攻予想して日向口に主力部隊配備したが、秀吉軍が意に反し薩摩北西部肥後口から侵攻してきたため、領国内が戦乱の渦に巻き込まれる総力戦避け、止む無く降伏決断したとされるその後根白坂の戦いでの敗北経て木食応其仲介のもと降伏する島津荘領主である近衛氏の前久による仲介交渉結果本領である薩摩大隅2か国・日向諸県郡は全所領安堵された(秀吉もまた近衛家猶子である)。 朝鮮の役では、乱妨取りした男女返還要請する秀吉朱印状受け取りながらも、明・朝連合軍との泗川の戦いなどの目覚しい勝利を賞賛され、豊臣政権から特別となる5万石の加増を受けることになる。これにより、島津家569千石余(文禄年間行われた石田三成奉行による検地結果)から61万石余となり、徳川氏255万石)・上杉氏120万石)・毛利氏112万石)・前田氏84万石)に次ぎ島津氏九州制覇目前にして豊臣秀吉交戦しながらも宇喜多氏伊達氏抜き豊臣政権下で第5位の地位に就く大大名となる。

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