戦国時代から安土桃山時代
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永禄初年を目安に矢部氏は本家筋が復活、次郎の乱から続く因幡毛利氏との親密な関係を基に但馬山名氏に反抗、度々、南因幡周辺で合戦を行った。また、矢部氏は天文年間に因幡毛利本家が山崎毛利氏を謀略を以って滅亡させたときにもこれに加担している。 永禄12年(1569年)5月、尼子勝久、山中幸盛が尼子再興を目指して挙兵、若桜方面より因幡へ侵攻した。矢部氏はこの時、尼子氏にくみして鬼ヶ城へ一部、尼子軍を駐屯させ、同年11月には毛利信濃守らと鳥取城の武田高信を攻撃した。 天正年間になり吉川元春が因幡に進出すると矢部氏はこれに従った。天正2年(1574年)、毛利氏が因幡から退くと尼子氏は再び侵入、天正3年(1575年)6月、播磨国に近い若桜を目につけた山中幸盛は謀略をもって城主の矢部氏を生け捕り、落城させた。この時をもって矢部氏は滅亡したといわれており、後に若桜周辺に帰農したと考えられている。
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戦国時代から安土桃山時代
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戦国時代には大友氏の家臣である森鎮実が城主となった。天文11年(1542年)、大友氏から大内氏へ寝返った森鎮実は、大友義鎮の1万3千の大軍に攻められ落城。鎮実は降伏する。鎮実はその後は大友氏の家臣の鷹取城主として戦うが、天正8年(1580年)に猫城攻略に失敗するなど、目立った戦功は無い。 その後、豊臣秀吉の九州征伐があり、鷹取城を含む筑前の地は小早川隆景の領土となるが、その間の詳細は不明である。
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戦国時代から安土桃山時代
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永禄5年(1562年) 色川盛直は紀伊国人衆として畠山高政に従い畿内侵攻、教興寺の戦いに参陣した。 天正2年(1574年)~天正6年(1578年) 色川郷、鎌ヶ峯城で色川盛直が堀内氏善に攻められるがこれを撃退した。 天正13年(1585年) 豊臣秀吉による紀州攻めにおいて、堀内氏善が降伏すると色川氏も上方勢に帰順し領地を安堵された。 文禄元年(1592年) 文禄の役において色川党枝連衆の色川三九郎が藤堂高虎に従って軍船で参陣した。 慶長5年(1600年) 関ヶ原の戦いにおいて色川三九郎は西軍に従い牢人となる。 元和5年(1619年) 色川氏は紀州藩主・徳川頼宣の附家老で新宮城主、水野重央に仕えた。
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戦国時代から安土桃山時代
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「因幡毛利氏」の記事における「戦国時代から安土桃山時代」の解説
天文から永禄年間にかけて、因幡毛利氏は次郎の乱以降、与党化していた矢部氏などと共に但馬山名氏の支配に反抗、私部表などで但馬山名氏を迎え撃った。また、天文11年(1542年)から同15年(1546年)にかけて一族で山名氏との関係を深めていた山崎毛利氏を滅亡させ、当時因幡へ進出してきた尼子氏と連携、永禄12年(1569年)、毛利信濃守は矢部氏、丹比氏、用瀬氏などと共に鳥取城の武田高信を攻撃した。 天正年間になり、尼子氏に代わって安芸毛利氏の勢力がこの地に及んでくると、最後の当主・毛利豊元は安芸毛利氏の傘下へ入った。豊元は子息・松千代丸を人質に差し出し、織田氏の進出を防ぐことになったが、天正8年(1580年)5月、豊臣秀吉率いる織田軍が因幡へ侵攻すると、私部城にいた豊元らは鳥取城へ撤収した。翌年10月、鳥取城が吉川経家の切腹により開城すると豊元は行方不明となり、200余年続いた因幡毛利氏はここに滅亡した。
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戦国時代から安土桃山時代
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この頃までの禰寝氏は、大隅国の国人の中では島津氏寄りの姿勢をとっていたが、その後島津氏は早世する当主が相次ぎ、その権威の低下をついて、隣に領地を構える肝付氏の攻撃が激しくなってくる。禰寝清年が当主であった享禄3年(1530年)、肝付兼興は禰寝領へも侵攻を開始したがこれは撃退することに成功している。天文12年(1543年)には種子島恵時との戦いに勝ち屋久島を領地とするが、これは翌年には奪いかえされることとなり、以後、種子島氏との対立が激化する。種子島氏側(『種子島家譜』)ではこれを「根占(禰寝)戦争」と呼び、重視するが、これに関わった禰寝一族の根占(禰寝)龍善の名は禰寝氏史料からは消されている。 清年の後を嗣いだ禰寝重長は琉球との交易や産業振興で領内の拡充を図る一方、領地の拡大をもめざし、戦国大名として成長していくことになる。この過程で種子島氏は島津氏を後ろ盾としたため、対抗上、禰寝氏は対立していた肝付氏と連合を組むこととし、永禄4年(1561年)の廻城の戦いでは肝付兼続側に付いている。その後、肝付氏、伊地知氏らと連合し、海軍を率いて鹿児島を奇襲するが、これは島津氏側の必死の防戦により失敗した。この頃が禰寝氏の勢力が一番大きかった時代といえよう。 この頃、島津氏の当主は義久に代わっていたが、悲願の薩隅日統一のためには肝付氏への対抗上禰寝氏との連合が不可欠であることを痛感し、重長にたびたび使者を派遣し調略、島津氏の勢いを悟った重長は義久の説得攻勢に屈することとなり、以後島津氏配下の武将となった。重長が島津氏側に寝返ったことを知った肝付兼続は、以後禰寝領に激しく攻撃を仕掛けてきたが、重長はそのたびに島津氏からの援軍を得て撃退に成功している。 重長の跡を嗣いだのは息子の禰寝重張(重虎)で、島津氏配下の武将として活躍していた。しかし、文禄5年(1596年)の文禄検地により、島津氏配下の武将のほとんどが先祖伝来の土地からの領地替えを命じられる。禰寝氏も例外ではなく、鎌倉時代から支配していた南大隅から引き離され、薩摩国吉利郷(現・鹿児島県日置市日吉町吉利)に遷(うつ)される。このことは禰寝氏の運命の転換点となる。庄内の乱後、北郷氏など多くの領主が旧領に戻る中で、禰寝氏は二度と旧領に戻されることはなかった。
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戦国時代から安土桃山時代
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「深溝松平家」の記事における「戦国時代から安土桃山時代」の解説
その後も深溝城主であり続けた。2代・松平好景、3代・松平伊忠は徳川家康の岡崎城での独立期から善明堤の戦いなどで働きを示し続けた。4代・松平家忠(家忠日記の著者)は酒井忠次の指揮下に組み込まれるが、「長篠の戦い」などで功を挙げた。 天正8年(1590年)の徳川家の関東移封で、家忠は武蔵忍に1万石を与えられている。しかし慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの前哨戦であった「伏見城の戦い」において、守将・鳥居元忠の副将格として伏見城で籠城玉砕している。 3代・伊忠以来、主殿助(4代・家忠からは主殿頭)の通称を用いていたため、松平主殿家とも言われる。
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戦国時代から安土桃山時代
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15代貴久(伊作氏出身)は内城を築き、修理大夫に任ぜられた。また、嫡男(後の義久)に将軍義輝より偏諱を受けている。貴久の嫡男である16代島津義久の代には、日向の大名であった伊東氏を駆逐し、戦国大名として薩摩国・大隅国・日向国の三州再々統一を成し遂げた。 1578年(天正6年)以降、幕府の鎮西管領であった豊後国の大名大友宗麟は日向領に征討を繰り返したが、これに対して義久は自ら出陣し、九州雌雄を決した耳川の戦いでは圧倒的な勝利を収め、大友軍を撤退させた。大友氏はこれにより九州北西部での勢力を減じ、大友氏が菊池氏に代わり守護となっていた肥後国でも、名和氏と城氏が島津氏に誼を通じた。義久は天草五人衆を従属させ宇土半島の阿蘇氏を駆逐して名和氏・城氏への支援路を確保し、九州北部制覇への足掛かりを築いた。さらに1581年(天正9年)には人吉藩の相良氏を降伏させた。 肥前国では大友氏が勢力を落としたのち、戦国大名・龍造寺隆信が強大な勢力を誇っていた。この龍造寺氏に圧迫されていた大名有馬晴信もまた、島津義久に助力を求める書状を送る。1584年(天正12年)、義久は末弟の島津家久に全軍指揮を任せ肥前島原半島に派遣。家久は沖田畷の戦いでは龍造寺軍を戦巧な戦いで撃破し大将隆信の首を討ち取るという殊勲をあげる。沖田畷の戦い以後、大友氏から龍造寺氏へと鞍替えしていた九州北部の豪族達が島津氏方に転じ、残る肥後国北中部の阿蘇氏、またその被官である甲斐氏の拠点を陥落させた(豪族としての矢部氏・阿蘇氏は滅亡し、その後、大宮司家として再興)。島津軍が瞬く間に九州全土に快進撃を行えたのは、戦略性を持つ統制の取れた機動力と戦術眼、また鉄砲の存在、それを実戦で培い磨き上げた高度な鉄砲戦術が大きかったと考えられる。 1586年(天正14年)には、義久は3人の弟(島津義弘・歳久・家久)や優秀な家臣団を使いこなし、大友氏の本拠である豊後国にも侵攻した。臼杵城における丹生島城の戦いでは、大神氏庶流の武宮親實のフランキ砲戦術により家久が撤退したが、島津氏は筑前国・豊後国の一部を除く九州の全土を手中にし、最大版図と勢力を築くこととなった。 しかし、義久らは豊臣秀吉の停戦命令に服さなかったことから、大友宗麟の嘆願により、九州平定を受ける。九州平定の前哨戦となった戸次川の戦い等では、島津軍は圧倒的な勝利を収める。豊臣連合軍が一方的な敗北を期したことから、秀吉は第二波の攻防では自ら出陣する決心をし、朝廷での関白の地位を利用し、40か国に近い諸国から25万人もの大量兵力を動員した。義久は秀吉軍の日向からの侵攻を予想して日向口に主力部隊を配備したが、秀吉軍が意に反し薩摩北西部の肥後口から侵攻してきたため、領国内が戦乱の渦に巻き込まれる総力戦を避け、止む無く降伏を決断したとされる。 その後、根白坂の戦いでの敗北を経て、木食応其の仲介のもと降伏する。島津荘領主である近衛氏の前久による仲介や交渉の結果、本領である薩摩・大隅2か国・日向諸県郡は全所領が安堵された(秀吉もまた近衛家の猶子である)。 朝鮮の役では、乱妨取りした男女の返還を要請する秀吉の朱印状を受け取りながらも、明・朝鮮連合軍との泗川の戦いなどの目覚しい勝利を賞賛され、豊臣政権から特別となる5万石の加増を受けることになる。これにより、島津家は56万9千石余(文禄年間に行われた石田三成奉行による検地の結果)から61万石余となり、徳川氏(255万石)・上杉氏(120万石)・毛利氏(112万石)・前田氏(84万石)に次ぎ、島津氏は九州全制覇を目前にして豊臣秀吉と交戦しながらも宇喜多氏・伊達氏を抜き、豊臣政権下で第5位の地位に就く大大名となる。
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