禰寝重長とは? わかりやすく解説

禰寝重長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/09/18 05:24 UTC 版)

 
禰寝 重長
個人蔵
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文5年(1536年
死没 天正8年3月16日1580年3月31日
別名 重武、通称:七郎
戒名 月窓成円大居士
墓所 鹿児島県南大隅町の宝屋寺
官位 右近大夫
主君 肝付兼続島津義久
氏族 禰寝氏
父母 父:禰寝清年、母:島津忠興
正室:肝付兼続
重張、本田忠親室
特記
事項
鬼丸神社祭神
テンプレートを表示

禰寝 重長(ねじめ しげたけ、1536年 - 1580年)は[注釈 1]大隅国国人である禰寝氏の第16代当主で、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。根占七ヶ郷(根占院。現在の肝属郡錦江町大根占地域及び肝属郡南大隅町根占地域)を領有していた。

生涯

1536年天文5年)、父禰寝清年、母島津忠興娘とのあいだに生まれる。

妻は肝付兼続の娘であり、1561年永禄4年)には兼続に従い大隅国内に出陣し、その後も肝付氏に従って島津氏と戦った。

兼続の死で肝付氏の形勢が不利になると、1573年元亀4年)には島津義久と単独で和睦し、そのため肝付兼亮伊地知重興に攻められることとなったが、これは島津軍の援軍によって撃退している。

1580年(天正8年)に死去。嫡子・重張が17代当主となり、島津氏の重臣として引き続き仕えた。重張は天正の役ののち豊臣秀吉から吉利村に移封されたが、当地に父重長の霊を祀った鬼丸神社を建立した。

政策

重長は内治において優れた才を発揮し、対明貿易や商業の奨励を盛んに行なった。

温州みかんの栽培を日本で最初に行った人物といわれている。

また、蝋燭材料の木蝋(櫨蝋)の原料であるハゼノキを中国から根占に取り寄せ、日本で初めて栽培させたとされている[注釈 2]。ハゼノキ栽培と櫨蝋生産はのちに他の地域にも広がり、重要な輸出品目となった。

脚注

[脚注の使い方]
注釈
  1. ^ 「しげなが」と読む文献が多いが、史料上「重武」と充てるものもあるので、この読みは誤りと考えられる。なお名字表記も根占(禰占)と記される場合も多い(根占献一『東西ルネサンスの邂逅ー南蛮と禰寝氏の歴史的世界を求めて』と諸論考などによる)。
  2. ^ 櫨実は運上銀納入者に買い占めさせる旨の薩摩藩藩達が1637年~1639年(寛永14年~16年)にあることから、櫨栽培はそれ以前に始まっていたことが推測されている[1][2]
出典

参考文献

関連項目





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「禰寝重長」の関連用語

禰寝重長のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



禰寝重長のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの禰寝重長 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS