押川公近
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押川 公近(おしかわ きみちか、元亀2年12月1日(1571年12月17日) - 寛永6年4月29日(1629年6月10日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。島津氏の家臣。通称は、鬼三郎、弥七、六兵衛、郷兵衛(強兵衛とも)。押川対馬守の次男。兄は押川河内守。妻は浜田経重の娘。子は押川近尚。
- ^ 山口直友は島津氏と遠縁の関係であり、徳川家中においても島津氏とのいわば折衝役であった。公近を見知っていた可能性は高い。
- ^ 信尹は一時、薩摩に配流されており、島津氏と親交が深かった。のちの徳川氏との折衝においても信尹が仲介にあたっている。また、島津氏一門格家老の喜入忠政一行も落ち延び、信尹の支援を受けて薩摩に帰還している。
- ^ 『本藩人物誌』の平田増宗の項に「依野心於入来土瀬戸越被誅(野心に依って入来土瀬戸越にて誅された)」とある(島津忠恒はこのとき家督を継いで主君であり、家臣である増宗に対して野心という言葉は有り得ないため、増宗の野心となる)。実際、増宗は庄内の乱を起こした伊集院忠真への加担を疑われ、更に忠恒の家督を廃し島津久信を後継に据えられるよう密かに徳川家康より朱印状を賜ったとの噂があったようで、増宗は樺山久高・鎌田政近に宛てて忠真とも久信とも関係ない旨を伝えている。(桐野作人『さつま人国誌 戦国・近世編 2』南日本新聞社)
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