禰津御寮人とは? わかりやすく解説

禰津御寮人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/10/05 14:53 UTC 版)

禰󠄀津御寮人(ねづごりょうにん、大永7年(1527年)? - ?)は、戦国時代の女性。甲斐武田氏の当主武田晴信(信玄)の側室信濃国小県郡(現長野県東御市祢津)の国衆である禰󠄀津元直の娘。出子に武田信清がいる。

武田晴信は天文11年(1542年)に家督を相続し、同年には信濃諏訪氏を征服し信濃侵攻を本格化させる。晴信には天文5年に輿入れした正室三条夫人のほか、側室として天文11年末に輿入れした信濃諏訪氏の娘(諏訪御料人)、武田一族の油川氏の娘(油川夫人)がいる。

禰󠄀津氏は天文12年(1543年)に武田方に帰属しており、『高白斎記』に拠れば「天文12年12月15日条に禰津より息女が晴信に入嫁した」としている。これを禰󠄀津御寮人の入嫁記事とする説もあるが[1]、禰󠄀津御寮人の出子は永禄3年(1560年)出生の信清が確認されるため、これは諏訪御料人を指すものと考えられている。一方、黒田基樹は信清の母を元直の嫡男・信直(常安)の娘とする所伝にあることについて誤伝ではなく、天文12年に入嫁したのは禰津御寮人で間違いなく、彼女とは別に彼女の死後に信直の娘(すなわち、御寮人の姪)が信玄の妻となり、信清を生んだとしている[2]

その後の動向は不明であるが、信清は幼くして僧籍に入ったものの勝頼の命で還俗し、武田家滅亡の後に異母姉・菊姫上杉景勝の正室となっていた縁を頼り、上杉家に高家と遇されて仕えることになる。

創作作品における扱い

実名は伝わっていないが、新田次郎の小説『武田信玄』では「里美」という名が与えられている[3]

脚注

  1. ^ 寺島隆史「近世大名になった祢津氏-中世末から近世初頭のかけての祢津氏の動静-」『千曲』46号、1985年。
  2. ^ 黒田基樹『武田信玄の妻、三条殿』東京堂出版、2022年7月、90-95・136-138頁。ISBN 978-4-490-21069-9 
  3. ^ 新田次郎「あとがき」『武田信玄 林の巻』文藝春秋文春文庫〉、1974年10月25日、423頁。ISBN 4-16-711203-5 

参考文献

  • 柴辻俊六「武田信玄とその一族」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年
  • 柴辻俊六「武田氏当主の妻妾」『山梨県史』通史編2中世、2007年




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