禰寝重永とは? わかりやすく解説

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禰寝重永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/21 04:10 UTC 版)

 
禰寝重永
時代 江戸時代前期
生誕 元和8年7月20日1622年8月26日[1]
死没 貞享5年8月23日1688年9月17日
改名 康千代、重永
別名 七郎、右近(通称)
主君 島津忠恒光久
薩摩藩
氏族 島津氏禰寝氏
父母 島津忠恒、鎌田政重娘
兄弟 島津光久島津忠朗北郷久直
島津忠広、町田忠尚、島津忠紀重永
島津久雄、鎌田政勝、伊集院久国、
島津忠心、伊勢貞昭、樺山久尚、
北郷翁久正室、島津久慶室、
種子島忠時室、島津久章室、島津久頼室、肝付兼屋正室、島津久茂室、入来院重頼正室
北郷忠致娘、北郷忠能
清雄
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禰寝 重永(ねじめ しげなが)は、江戸時代前期の薩摩藩士で薩摩藩主・島津忠恒の八男。通称は七郎、右近。吉利郷領主の禰寝重政が死亡したため、藩命で禰寝家当主となった。

生涯

元和8年(1622年)に誕生。母は鎌田氏の諸家である鎌田将連の養子鎌田政重の娘で島津忠恒の側室[2][3]。幼名は康千代。

寛永11年(1634年)、家久の命で九弟・福寿丸に代わって禰寝家を相続する。寛永19年(1642年)、八番組頭役となる。慶安2年(1649年)、2代藩主・島津光久の使いで江戸城に登城して、3代将軍・徳川家光に拝謁する。寛文7年(1667年)、隠居して家督を嫡男の清賢(清雄)に譲り、三兄・島津忠朗の領地加治木に隠棲した。

貞享5年(1688年)8月23日死去、享年67。

脚注

出典
  1. ^ 『鹿児島県史料拾遺 18』鹿児島県史料拾遺刊行会、1985年、p.66。
  2. ^ 戦国島津女系図「鎌田政重女 島津家久(忠恒)側室」。2010年5月21日閲覧。
  3. ^ 鎌田氏のカテゴリ

参考文献

関連項目




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