独立期
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1985年1月からの半年間の休養を経て、沢田はデビュー以来所属してきた渡辺プロダクションから独立。株式会社ココロを設立し、レコード会社もポリドールから東芝EMIに移籍した。 同年6月に自叙伝『我が名は、ジュリー』(玉村豊男編 / 中央公論社)を刊行。8月発売の移籍第1弾の作品は、沢田自身が作詞・作曲したシングル「灰とダイヤモンド」。新たなバックバンドとしてチト河内を中心にCO-CóLOを結成。アルバムでは「架空のオペラ」をリリース。 1985年に日米合作映画「Mishima: A Life In Four Chapters」(日本未公開)で劇中劇「鏡子の家」に出演、カンヌ映画祭に緒形拳らと共に出席。同作品は芸術貢献賞を受賞。 1986年に発表したアルバム『CO-CóLO 1 〜夜のみだらな鳥達〜』をはじめとしたCO-CóLOの3部作は、沢田の作詞した作品を技巧派のバンドメンバーがダークなメロディラインで曲を作った。音楽関係者の評価は変わらず高かったが、当時のミュージックシーンには受け入れられなかった。 1987年1月、伊藤エミに慰謝料18億1,800万円を支払い、離婚。1986年8月から伊藤と別居していた沢田は、1982年の映画『男はつらいよ 花も嵐も寅次郎』で共演した田中裕子と不倫関係にあった。田中とは1989年11月に出雲大社で再婚することとなる。1987年3月に京都公演中のステージから転落し、左肘骨折・肋骨打撲で1ヶ月間入院。 1988年、3年間活動を共にしCO-CóLOは解散。 1989年、EXOTICSのメンバーだった吉田建をプロデューサーに迎え、村上'ポンタ'秀一を加えて新バンドJAZZ MASTERを結成し、アルバム『彼は眠れない』を発表。同年、10年間にわたって継続する音楽劇『ACTシリーズ』がスタート。横浜アリーナで行われたタイガースメモリアルクラブバンドのコンサートに参加した。同年末の「第40回NHK紅白歌合戦」ではシングル「DOWN」の他、ザ・タイガースとしても出場し、「花の首飾り」と「君だけに愛を」のヒットメドレーを披露した。同番組の出場者としては初めて同一回で2度出場した。1991年、デビュー25周年を記念してCD化されていなかった旧譜が東芝EMIより発売。25周年にちなみ、NHK-BS2では5日間計25時間の特集番組「美しき時代の偶像」が放送された。 1992年から、「懐メロ歌手ではない現役の歌手だから」という理由で、沢田は音楽番組での過去の映像の放映を許可しなくなる(2001年以降は解禁している)。 1994年、「HELLO」で5年ぶりに紅白歌合戦に出場。1995年、沢田は「これからは、自分のやりたい音楽を、やりたいようにやっていきたい」とセルフ・プロデュースを宣言し、23年ぶりのセルフ・プロデュースアルバム「sur←」を発表した。以降、現在に至るまで一貫して沢田自身がアルバムのプロデュースを手掛けている。 1997年には岸部一徳、森本太郎とともにユニット"TEA FOR THREE"を結成し、「君を真実に愛せなくては他の何も続けられない」を発表。 1980〜90年代にかけて俳優としてはNHKの連続テレビ小説『はね駒』や大河ドラマ『山河燃ゆ』『琉球の風』、映画『カポネ大いに泣く』『夢二』ほか、フジテレビ『プロ野球ニュース』の準レギュラーとして出演した。
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独立期
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20世紀にはラトビア独立の気運が高まり、ロシア革命において、エストニア人と共にボリシェヴィキと戦い、さらにバルト連合公国の創設を目指したバルト防衛軍とも戦い、勝利を収めた(ラトビア独立戦争(ラトビア語版、英語版))。この勝利は、バルト・ドイツ人に対する700年間の被支配からの脱却を意味した。 第一次世界大戦後の1919年に民族自決の原理に従い、ラトビア第一共和国として独立を勝ち取るが、その後カールリス・ウルマニスを中心とする右派政府と赤軍の内戦を経て、1920年8月、ソヴィエト・ロシアと和平条約を締結、民主主義体制での独立を確立した。その上で帝政ロシア時代のクールリャント県(クールラント)も獲得した。一方で旧リヴォニアはその中央部でエストニアと分割することとなった。国内では1922年から1934年までに39もの政党が乱立して議会(サエイマ)を構成していた。少数派とは言え、ロシア人やユダヤ人、バルト・ドイツ人の政党がひしめき合い、政権は度々交代し、議会での立案も数千に渡るなど、国内政治の基盤は常に不安定であった。しかし世界大恐慌からの経済立て直しのために1934年にウルマニス独裁政権が成立、ソビエト連邦やナチス・ドイツと不可侵条約を締結し、政治的安定を図った。
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