独立期の活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/05 09:44 UTC 版)
「セカルマジ・マリジャン・カルトスウィルヨ」の記事における「独立期の活動」の解説
1945年11月7日、マシュミの執行委員会メンバーに選出され、1947年には西ジャワ代表委員に任命される。7月3日、社会主義政権の首相アミル・サラフディン(英語版)から国防副大臣への就任を要請されるが、イスラム国家の樹立を掲げていたカルトスウィルヨは要請を拒否した。 インドネシア独立戦争では世俗主義的なインドネシア国民党と共闘してオランダ軍へのゲリラ攻撃を展開し、1948年のレンヴィル協定締結によりオランダ軍を西ジャワ撤退に追い込んだ。しかし、カルトスウィルヨはスカルノらインドネシア国民党がオランダと妥協しながら独立を目指していることに反発しており、また同時期にスカルノ政権の経済状況の悪化を契機にイスラム教国家の樹立を本格的に模索し始め、8月に新国家の憲法を制定する。 1949年1月25日、カルトスウィルヨの民兵団とインドネシア国軍との間で武力衝突が発生。衝突によりスカルノ政権を敵と認識したカルトスウィルヨは、イスラム国家樹立に向けた準備に取り掛かる。スカルノは事態を沈静化するため、マシュミ穏健派のモハマッド・ナシールを通じて書簡を送る。8月5日に書簡は届いたが、既に独立の準備を終えていたカルトスウィルヨはナシールへ「私は自分の唾を飲み込む必要はない」と返信している。
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