戦国時代と下剋上とは? わかりやすく解説

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戦国時代と下剋上

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 06:20 UTC 版)

赤松氏」の記事における「戦国時代と下剋上」の解説

戦国時代に入ると政則が従三位昇進するなど全盛期迎えた。しかし明応5年1496年4月に政則は急死した。跡を継いだのは赤松分家七条家出身婿養子である赤松義村であったが、幼少のために守護代浦上氏別所氏らの実力高まり赤松家当主大名権力に蔭りが見え出した成長した官僚機構整備し、独自の権力強化していく政策実施して赤松家戦国大名化大名権力の強化図った。しかし備前国守護代浦上村宗との間に確執生まれ永正15年1518年)から義宗の間に内紛起こったこの内紛は宗が勝利し、義宗の圧力受けて嫡子の晴政に家督を譲らされた。義大永元年1521年9月宗によって暗殺され、晴政は宗の傀儡として利用され赤松家没落の道を辿り出す。 以後10年弱は宗の専権続き播磨国では浦上派と反浦上派が武力闘争起こすなど大混乱となった享禄4年1531年)、晴政は大物崩れによって宗を討ち果たした。これにより晴政の大名権力一時的に高まったが、赤松領内では浦上氏残党勢力による抵抗もあり(『二水記』)、赤松家直接支配が及ぶ範囲西播磨方面限定され赤松家当主分国守護代郡代与え命令系統この頃になると無効化していた。 天文6年1537年)からは出雲国戦国大名である尼子晴久侵略始まり、晴政は領国追われ淡路国逃亡したこのため家臣大半尼子氏寝返るが、東播磨守護代の別所村治のみは晴政と通じて抵抗した。また晴政は幕府支援得て領国奪回乗り出し苦戦の末に播磨から尼子勢力追放した天文23年1554年)、摂津国戦国大名三好長慶の東播磨侵攻もあり、別所氏三好軍の侵攻抵抗するが東播磨一帯はほぼ三好軍に制圧された。また天文21年1552年)には備前美作守護職尼子晴久与えられるなど(『佐々木文書』)、名目上とはいえ晴政は2か国の守護職を失った。さらに永禄元年1558年)には晴政が嫡子の義祐と対立するなど家中内紛起こり、この対立敗れた晴政は家督を義祐に奪われ、自らは娘婿である一族赤松政秀庇護される事になる。以後、晴政は義祐と対立しながらも政秀と共同して西播磨辛うじて支配しながら、当時中国地方勢力大幅に拡大しつつあった毛利元就接近して体制再建図ったが、実現せず終わった

※この「戦国時代と下剋上」の解説は、「赤松氏」の解説の一部です。
「戦国時代と下剋上」を含む「赤松氏」の記事については、「赤松氏」の概要を参照ください。

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