戦国時代の「天下」と「国家」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 00:00 UTC 版)
「戦国時代 (日本)」の記事における「戦国時代の「天下」と「国家」」の解説
天下という概念は本来的には領域を持たず、内部に地理的な区分としての「国」を含むものとされている。しかし戦国期の日本国では、この時代固有の認識が存在していた。 戦国期の「天下」は、漠然と日本全国のことを指して使用することもあるが、具体的には足利将軍の事を意味し、領域としては京都を含む五畿内のことを「天下」と言う。織田信長が永禄10年(1567年)以降使用するようになった「天下布武」の印章も天下、即ち五畿内に将軍の支配の下に静謐(平和)をもたらそうとする意志の表明であった。戦国期、布教活動のため来日したイエズス会の宣教師たちが編纂した『日葡辞書』は「天下」について、「帝国もしくは君主国」或いは「日本の君主国」と記している。 一方の「国家」や「国」「御国」は戦国大名などが使用した言葉で、「国家」とは「国」と「家」が合体した言葉である。「国」は分国を意味し、その集合体が領国とされる。『日葡辞書』に「国家」のことを「国と家、または国と一族」と記される通り、戦国大名による「国家」は大名家一族による支配が前提にあった。戦国期の「国家」には国民主権は無く、領民は戦国大名に服属し依存するだけの存在でしかなかった。しかし戦国大名の「国家」には明確な限界が存在した。戦国大名は「国家」文言を一族・家臣・寺社に対してのみ使用し、国人・国衆は大名の「国家」を受容してはいなかった。また後北条氏は領民に対しては「国家」の代わりに「御国」という言葉を使用したが、その範囲は分国全域に広く行き渡るものではなく、後北条氏一門の直轄地に対して限定的にしか使用されなかった。 「天下」と「国家」は領域の違いだけではなく、それを使用する足利将軍と戦国大名の政治的な次元自体が異なっていたとされ、将軍による「天下の政道」と大名による「分国の政道」が重層的に存在していたとされる。また「天下」の事柄は「国」の事柄よりも優先され、大名が「天下」の平和のために尽力することは将軍への奉仕を意味していた。
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