戦国時代における動向
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 05:42 UTC 版)
甲斐国の武田氏は北信地域をめぐり越後上杉氏と抗争していたが(川中島の戦い)、永禄4年の第四次合戦を機に北信をめぐる抗争は収束し、武田氏は西上野侵攻を開始する。 越後上杉氏の勢力下にあった西上野では武田氏に抵抗する国衆と服属する国衆があるが、後閑氏は国峰小幡氏などともに武田氏に帰属することで旧領回復を成した国衆で、西上野国衆との取次は跡部勝資や原昌胤らが務めているが、後閑氏との取次は跡部勝資が務めている。 後閑信純は甲斐の名族上条氏の名を継ぐことになり、上条真純と名乗ったという。信純のあとは、後閑弥太郎(刑部少輔)と上条善次郎(宮内少輔)の二子が後閑姓と上条姓をそれぞれ継いでいる。また庶子の後閑下野守が総社に拠っている。 しかし天正10年(1582年)3月、武田氏は織田氏の侵攻によって滅亡し、西上野においては信長の部将滝川一益が関東管領として厩橋に入城してきた。これによって後閑氏は新たな主君を探すことになった。 上条氏を名乗っていた上条宮内少輔は、武田滅亡後に後閑姓に復し、刑部少輔とともに両後閑と呼ばれるようになったが、この両後閑の2人は後北条氏に属した。天正11年(1583年)後北条氏から両後閑氏宛ての、出陣の際における両後閑の配下の員数を定めた書状があり、両後閑氏が後北条氏の幕下にあったことを示している(「後閑文書」)。一方、『日本城郭大系』の後閑城の記述では、武田滅亡後に小田原方となった両後閑に対し、総社にあった後閑下野守は北条高広に従ったという。 天正12年(1584年)、北条高広が後北条氏に降ると、北条氏政は両後閑氏に厩橋在番を命じた。天正18年(1590年)、小田原征伐に際して両後閑氏は小田原に籠城し、総社にあった後閑又右衛門尉は大道寺政繁に従って松井田城へ入った。 小田原征伐後、両後閑たる刑部少輔と宮内少輔の姿は見えなくなり、領主としての後閑氏は没落した。しかし子孫は残っていたらしく、旧領後閑の地を治めた井伊家中に後閑善兵衛・新兵衛の名が見える。それぞれ刑部少輔と宮内少輔の子と推察され、刑部少輔系・宮内少輔系の2流に分かれた後閑氏はともに井伊家に仕えた(『安中市史』)。 後閑信純の諸子は、本名や系譜関係に諸説あり、古文書類に記載される名前との比定が難しくなっている。「日本城郭大系」では後閑下野守を後閑信純の長子で名を信重とし、分家して石倉城に拠ったとする。また家を継いだのは次子の後閑重政、三子は上条信久とする。また、重政を長子、信久を次子、信重を三子とする説もある(『関東地方の中世城館』)。またこの説では、信重の子を松井田城に入った又右衛門尉信定とする。 信久を嫡子とするものもある。「甲斐国志」「新田族譜」によれば、永禄12年(1569年)、武田勝頼が駿河の今川氏真と戦ったとき、信純と嫡子の信久は武田氏の幕下として出陣し信純・信久ともに戦死したという(太田亮『姓氏家系大辞典』)[要ページ番号]。
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