武田滅亡後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 13:41 UTC 版)
信長が本能寺の変(1582年6月)で死去した後に甲斐・信濃の武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生した。相模国の北条氏直は織田家臣・滝川一益を神流川の戦いで破ると、真田家は後北条氏に臣従の構えを見せた(このため北条氏は川中島まで侵出し上杉氏と対峙することになる)。この時、上野を放棄して織田領へ逃走する滝川を支援し、途中まで見送ったという。 同じ頃、越後国の上杉景勝が信濃へ進出していたが、信幸は川中島へ度々出陣し上杉領の海津城を撹乱した。だが、やがて徳川家康に臣従した武田遺臣・依田信蕃や叔父の真田信尹らの誘いにより、沼田城を北条方から奪還し、真田家は北条氏と敵対する。信幸は手勢800騎を率い、北条方の富永主膳軍5,000が防衛する手子丸城を僅か一日で奪還し、武功を挙げたという(『加沢記』)。依田信蕃らのゲリラ戦も功を奏し、真田家は北条方を沼田から駆逐することに成功する。 天正12年(1584年)、真田家は信濃小県郡の国人室賀氏と争い、小規模戦闘にて勝利を重ね、和睦に持ち込む。直後に信幸は父・昌幸と共謀して当主・室賀正武を暗殺し、小県郡の同族であった根津昌綱を懐柔し真田氏は小県を支配下に治めた。同年、なおも真田領を狙う北条氏の侵攻に対し、北条氏邦の奇襲を察知した信幸は吾妻仙人窟にてこれを撃退している(『松城通記』)。
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