『加沢記』とは? わかりやすく解説

『加沢記』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:42 UTC 版)

吾妻四郎助光」の記事における「『加沢記』」の解説

江戸時代に元沼田藩藩士書いたのが『加沢記』である。その「岩櫃城由来之事 並 吾妻太郎殿 附 吾妻三家之事」という章に吾妻氏の来歴示されており、吾妻四郎助光言及がある。 遠江守為憲より五世にして維光の二男維元、始て吾妻郡を賜ひ太田庄に居住有て吾妻太郎と申けり。是より子代々吾妻郡太田長田、伊参(いさま)の郡を守護し繁昌し給ひけるが維元より四代孫四郎助光のときにあって承久癸未六月の乱に北条義時催促に随て宇治川の合戦溺死給し以下略) — 加沢平次左衛門『加沢記』「岩櫃城由来之事 並 吾妻太郎殿 附 吾妻三家之事」 、国立国会図書館デジタルコレクション『加沢記』、コマ番号14-15 この記述従えば藤原南家藤原為憲の子孫が吾妻氏の初代吾妻太郎維元」である。吾妻氏は代々上野国吾妻郡領知したという。その4代目が「四郎助光」である。しかし、四郎助光承久の乱1221年)の際、鎌倉幕府軍の一員として西へ向かう途上宇治川の合戦溺死したのだという。『加沢記』とは違い尾張国戦死したとする伝もある。 吾妻氏のルーツについては他の文献では異説異伝がある。藤原北家末裔とする伝や清和源氏の子孫とする伝があるほか、これらの名族ルーツではないという説があるものの、いずれも根拠欠き確実なものはない。 『加沢記』では、助光戦死した後の吾妻氏のことも触れられている。これによると、吾妻四郎助光死後重臣大野氏塩谷氏・秋間氏が主家事実上乗っ取って三家吾妻氏の領地分け合ってしまったという。

※この「『加沢記』」の解説は、「吾妻四郎助光」の解説の一部です。
「『加沢記』」を含む「吾妻四郎助光」の記事については、「吾妻四郎助光」の概要を参照ください。

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