『加沢記』
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江戸時代に元沼田藩藩士が書いたのが『加沢記』である。その「岩櫃城由来之事 並 吾妻太郎殿 附 吾妻三家之事」という章に吾妻氏の来歴が示されており、吾妻四郎助光の言及がある。 遠江守為憲より五世にして維光の二男維元、始て吾妻郡を賜ひ太田庄に居住有て吾妻太郎と申けり。是より子孫代々吾妻郡太田、長田、伊参(いさま)の郡を守護して繁昌し給ひけるが維元より四代の孫四郎助光のときにあって、承久三癸未年六月の乱に北条義時の催促に随て宇治川の合戦に溺死給し(以下略) — 加沢平次左衛門『加沢記』「岩櫃城由来之事 並 吾妻太郎殿 附 吾妻三家之事」 、国立国会図書館デジタルコレクション『加沢記』、コマ番号14-15 この記述に従えば、藤原南家の藤原為憲の子孫が吾妻氏の初代「吾妻太郎維元」である。吾妻氏は代々上野国吾妻郡を領知したという。その4代目が「四郎助光」である。しかし、四郎助光は承久の乱(1221年)の際、鎌倉幕府軍の一員として西へ向かう途上、宇治川の合戦で溺死したのだという。『加沢記』とは違い、尾張国で戦死したとする伝もある。 吾妻氏のルーツについては他の文献では異説・異伝がある。藤原北家の末裔とする伝や清和源氏の子孫とする伝があるほか、これらの名族がルーツではないという説があるものの、いずれも根拠に欠き確実なものはない。 『加沢記』では、助光が戦死した後の吾妻氏のことも触れられている。これによると、吾妻四郎助光の死後、重臣の大野氏・塩谷氏・秋間氏が主家を事実上乗っ取って、三家で吾妻氏の領地を分け合ってしまったという。
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