海野兄弟粛清事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:20 UTC 版)
天正9年(1581年)、幸光と弟・輝幸、甥・幸貞が突如武田氏によって粛清された。この事件の事実関係を裏付ける確実な史料は存在しないが、『古今沼田記』『羽尾記』は事件日を10月23日とし、『加沢記』は11月のこととしている。 以下は『加沢記』に記述されている幸光の最期の様子である。幸光は真田昌幸の軍勢により岩櫃城の自身の屋敷にて襲撃され、当時老衰により盲目であったが座敷に麻の殻を撒き散らして殻を踏む音で敵を見分け、三尺五寸の太刀を振るい十四、五人を切り伏せたという。しかし切り抜けることはかなわず館に火をかけ自刃した。享年は75と伝わる。館から脱出した幸光の妻と娘は越後に逃れようとしたが、真田方の包囲から逃れられず家来・渡利常陸介によって殺害された。また、弟・輝幸とその子・幸貞は沼田城に派遣された加津野昌春の襲撃を受け、親子で刺し違えて自刃した。 幸光ら海野一族が粛清された要因として、幸光ら海野氏が同郡の鎌原氏と所領問題で対立しており、さらに沼田城攻略後に吾妻郡の支配を巡って真田昌幸とも対立している(『加沢記』)。幸光らは吾妻郡の支配を巡り周辺国衆や真田氏との関係を悪化させていたため、上野支配の安定化を図る武田・真田氏が海野一族を排除することにより、海野氏を巡る所領問題の解決と領国の安定化を図ったと平山優は推測している。また平山優は、沼田城攻略に伴う恩賞宛行の遅延と混乱、さらには同年3月の高天神城落城による武田氏の求心力の低下が、幸光をはじめとする上野国衆の離反を誘発したとも指摘している。
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