『加沢記』に基づく事績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:55 UTC 版)
以下は、『加沢記』に基づいた羽尾道雲の事績である。 永禄3年に発生した上杉謙信の関東侵攻に合わせ、同年10月に道雲は斎藤憲広・湯本氏・大戸浦野氏と共に武田氏に通じて吾妻斎藤氏と対抗していた鎌原氏の鎌原城(現・嬬恋村)を攻めた。これに対して武田氏は同5年(1562年)3月に鎌原・羽尾両氏の領土紛争の調停にあたったが道雲は斎藤憲広を通じて調停結果を拒否したため、鎌原氏は上野を退去した。これにより道雲は鎌原城を手に入れたが、翌年(1563年)6月に真田幸綱らの援軍を得た鎌原氏に万座へ湯治に行っていた隙を攻められ鎌原城を奪回され、さらに羽根尾城も奪取された。道雲はその後自身の所領に戻れず、信濃高井郷(現・須坂市)に逃れた。9月に道雲は斎藤憲広と共に長野原城(現・長野原町)を攻め城将の常田新六郎(隆永か?)を討ち取り、羽尾領を奪回した。 その後、永禄7年(1564年)斎藤憲広が武田氏に攻められて没落した段階で吾妻斎藤氏と共に没落したとみられ、羽尾氏の国衆としての動向がみられなくなる。
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