著者の加沢平次左衛門
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 21:00 UTC 版)
『加沢記』の著者は加沢平次左衛門(寛永5年〈1628年〉 - 元禄5年〈1692年〉5月28日)という。出身は信濃国北部の小県郡の加沢村、本姓を小林といった。 加沢家はもともと禰津氏家臣だった。禰津氏は信濃国(現在の長野県)北部の小県郡(現在の上田市周辺)の名族、滋野氏の末裔である。戦国時代後期、加沢家は真田氏に臣従するようになり、天正14年(1586年)には真田信之の家老として上野国利根郡川田一帯(現在の群馬県沼田市下川田町周辺)を拝領している。加沢家は以後も代々、真田家の家老を勤めたという。 加沢平次左衛門が生まれた1628年頃の真田家は、真田信之を藩主として松代藩(長野県長野市)を治めていた。沼田城下3万石は真田家の飛び地の領地となっており、信之の長子真田信吉に分領として預けられていた。明暦4年(1658年)に真田家の後継をめぐるお家騒動があり、最終的に松代藩を真田宗家の真田幸道が襲封し、沼田は従兄弟の真田信利に分与され沼田藩として独立することになった。 加沢平次左衛門は、大笹関所(現在の嬬恋村)の番人となり、勘定方に任じられた。また、沼田藩主真田信利の右筆も務めた。とは言え、禄高は4両3人扶持に過ぎなかった。 藩主の真田信利は悪政を行い、領民を苦しめたという。延宝8年(1680年)には沼田藩が幕府勘定方より江戸の両国橋工事の木材拠出を請け負うが、この責を果たすことができなかった。この事態に及び、加沢平次左衛門は藩の行く末を察して職を辞したという。ほどなくして、領民杉木茂左衛門による直訴があり、天和元年(1681年)に信利は改易、沼田藩は廃藩となったこのとき幕府方は、藩の内情について、勘定方だった加沢平次左衛門に取り調べを行った。その際に加沢らが提出した「上野国沼田領品々覚書」も地誌史料として重要視されている。 藩職を辞して浪人となった加沢平次左衛門は、川田城跡(現在の沼田市下川田町)の西の片隅に居を構え、余生を過ごした。法名を「覚誉皈本居士」といい、川田城跡にある墓所は沼田市の重要文化財(建造物)に指定されている。
※この「著者の加沢平次左衛門」の解説は、「加沢記」の解説の一部です。
「著者の加沢平次左衛門」を含む「加沢記」の記事については、「加沢記」の概要を参照ください。
- 著者の加沢平次左衛門のページへのリンク