執筆から公刊まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/11 21:00 UTC 版)
加沢平次左衛門は、浪人して川田城跡暮らしとなった後に、真田家の歴史の執筆を始めたものと推定されている。その直筆原本は、藩の勘定帳の裏面に覚書として書かれたもので、毛筆で書かれており判読は難解なものだった。 この原本が利根郡政所村(現在のみなかみ町政所)の増田家に所蔵されており、天明2年(1782年)になって全体の4分の1ほどの部分を選び、増田家による浄書加筆を経て『加沢平次左衛門覚書』として紅葉山文庫に収められたのが初出である。増田家では3代にわたり同書の研究を重ね、天保3年(1832年)には改訂版の『加沢記』を紅葉山文庫に納めている。 天明年間に『加沢記』を仕上げた増田頼興(増田作右衛門頼興)は、幕府に出仕して飛騨郡代、勘定吟味役、日光普請御用掛などを歴任した人物である。幕末には小栗忠順(小栗上野介)と共に横須賀造船所を創設した。一般に刊行されたのは明治17年(1884年)に『史籍集覧』に採録されたのが初である。その後、『加沢記』は上野国(群馬県)の重要史料と評価され、増田頼興自筆の原本から写本が作られた。しかし大正12年(1923年)の関東大震災でこれらの写本が全て焼失したため、改めて翌大正13年(1924年)に、原本をもとに活字版が作成され公刊された。
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