執権時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 09:27 UTC 版)
執権へ就任した時頼だが、この当時、幕府の政治の中枢にある評定衆のメンバーの大半(三浦泰村、毛利季光など)が、時頼を支持していなかった。それから1ヵ月後、前将軍・藤原頼経を始めとする反北条勢力が勢い付き、寛元4年(1246年)5月には頼経の側近で北条氏の一族であった名越光時(北条義時の孫)が頼経を擁して軍事行動を準備するという非常事態が発生したが、これを時頼は鎮圧するとともに反得宗勢力を一掃し、7月には頼経を京都に強制送還した(宮騒動)。これによって執権としての地位を磐石なものとしたのである。 翌年、宝治元年(1247年)には安達氏と協力して、有力御家人であった三浦泰村一族を鎌倉に滅ぼした(宝治合戦)。続いて千葉秀胤に対しても追討の幕命を下し、上総国で滅ぼした。これにより、幕府内において反北条氏傾向の御家人は排除され、北条氏・得宗の独裁政治が強まる事になった。一方で六波羅探題北条重時を空位になっていた連署に迎え、後に重時の娘・葛西殿と結婚、時宗、宗政を儲けている。 建長4年(1252年)には第5代将軍藤原頼嗣を京都に追放して、新たな将軍として後嵯峨天皇の皇子である宗尊親王を擁立した。これが、親王将軍の始まりである。 しかし時頼は、独裁色が強くなるあまりに御家人から不満が現れるのを恐れて、建長元年(1249年)には評定衆の下に引付衆を設置して訴訟や政治の公正や迅速化を図ったり、京都大番役の奉仕期間を半年から3か月に短縮したりするなどの融和政策も採用している。さらに、庶民に対しても救済政策を採って積極的に庶民を保護している。家柄が低く、血統だけでは自らの権力を保障する正統性を欠く北条氏は、撫民・善政を強調し標榜することでしか、支配の正統性を得ることができなかったのである。
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