執権職相続
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父の時氏は寛喜2年(1230年)6月に早世し、その他の北条泰時の子である北条時実も暗殺されていたため、嫡孫の経時が泰時の後継者と目されていた。父・時氏が存命中の嘉禄2年(1226年)には祖父・泰時の意向で宇都宮泰綱の娘と婚約している。寛喜2年(1230年)6月18日に父が早世すると、経時は父が就任していた若狭守護職を務めた(『若狭国守護職次第』)。ただしその期間は明確ではなく、熊谷隆之は時氏の死去から翌年までの期間で、7歳の少年が実務などできるわけが無く実際は泰時が後見しており、時氏の後継者としての立場を明確にするために名目上の守護にしたとされている。 天福2年(1234年)3月5日に11歳で元服する。元服式は第4代将軍の藤原頼経の御所で行なわれて頼経が加冠し、理髪は北条時房が行ない、頼経の偏諱を賜って弥四郎経時と名乗った(『吾妻鏡』)。弥四郎の仮名は北条時政や北条義時の仮名である「四郎」を意識してのもので、得宗嫡流の正当性を示そうとする泰時の意思があったとされている。同年8月1日に幕府の小侍所別当に任命され、嘉禎2年(1236年)12月26日まで務めた(『吾妻鏡』)。嘉禎3年(1237年)2月28日に左近衛将監に任じられ、翌日に従五位下となる(『武家年代記』)。 仁治2年(1241年)6月28日、祖父・泰時より評定衆の一人に列せられた(『吾妻鏡』)。8月12日には従五位上となる(『武家年代記』)。この年、59歳の泰時は体調を崩して健康不安を抱えており、経時を後継者として確立するために急いでいたとされている。この年の11月25日に泰時は経時を呼んで政務について訓戒しており、泰時は経時に対して泰平を尊重するために文治に励み、「特に実時とは何事も相談して協力せよ」と諭している。経時は実時と同年齢であり、かつて泰時を叔父の時房が助けたように経時にも実時を配す事で次代の安全を図ったようである。またこの時に行われた酒宴には経時や実時だけでなく、三浦泰村・後藤基綱・二階堂行盛・太田康連ら有力御家人や実務官僚が顔を揃えており、正式な後継者指名の場であったとする指摘もある。 仁治3年(1242年)6月15日、泰時の死去に伴って、6月16日に経時は19歳で執権となる(『尊卑分脈』『系図纂要』)。しかし泰時の死と若年の経時の継承により侮りがたい敵対勢力という不安定要因を抱えた政権となった。さらに連署は置かれなかった。石井清文は、北条氏一門ならば朝時・重時・時盛・政村・有時・実時らが、非北条氏一門ならば足利義氏や三浦泰村なども候補になり得たであろうが、経時を単独で支えられるような卓越した有力者がおらずに互いに牽制しあう関係にあるという政治的不安定要因が連署の設置を断念させ、また北条時房の没後に泰時が執権・連署を置かなかったことも経時に単独執権制を選択させたとしている。
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