執権職相続とは? わかりやすく解説

執権職相続

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 03:15 UTC 版)

北条経時」の記事における「執権職相続」の解説

父の時氏は寛喜2年1230年6月早世し、その他の北条泰時の子である北条時実暗殺されていたため、嫡孫経時泰時後継者目されていた。父・時氏が存命中の嘉禄2年1226年)には祖父泰時意向宇都宮泰綱の娘と婚約している。寛喜2年1230年6月18日に父が早世すると、経時は父が就任していた若狭守護職務めた(『若狭国守護職次第』)。ただしその期間は明確ではなく熊谷隆之は時氏の死去から翌年までの期間で、7歳少年実務などできるわけが無く実際泰時後見しており、時氏の後継者としての立場明確にするために名目上守護にしたとされている。 天福2年1234年3月5日11歳元服する元服式は第4代将軍藤原頼経御所行なわれ頼経加冠し、理髪北条時房が行ない、頼経偏諱を賜って弥四経時名乗った『吾妻鏡』)。弥四郎の仮名北条時政北条義時仮名である「四郎」を意識してのもので、得宗嫡流正当性示そうとする泰時意思があったとされている。同年8月1日幕府小侍所別当任命され嘉禎2年1236年12月26日まで務めた『吾妻鏡』)。嘉禎3年1237年2月28日左近衛将監任じられ翌日従五位下となる(『武家年代記』)。 仁治2年1241年6月28日祖父泰時より評定衆一人に列せられた(『吾妻鏡』)。8月12日には従五位上となる(『武家年代記』)。この年59歳泰時体調崩して健康不安を抱えており、経時後継者として確立するために急いでいたとされている。この年11月25日泰時経時呼んで政務について訓戒しており、泰時経時に対して泰平尊重するために文治励み、「特に実時とは何事も相談して協力せよ」と諭している。経時は実時と同年齢であり、かつて泰時叔父の時房が助けたように経時にも実時を配す事で次代の安全を図ったようである。またこの時に行われた酒宴には経時や実時だけでなく、三浦泰村後藤基綱二階堂行盛太田康連ら有力御家人実務官僚が顔を揃えており、正式な後継者指名の場であったとする指摘もある。 仁治3年1242年6月15日泰時死去伴って6月16日経時19歳執権となる(『尊卑分脈』系図纂要』)。しかし泰時の死と若年経時継承により侮りがたい敵対勢力という不安定要因抱えた政権となった。さらに連署置かれなかった。石井清文は、北条氏一門ならば朝時・重時・時盛・政村・有時・実時らが、非北条氏一門ならば足利義氏三浦泰村なども候補になり得たであろうが、経時単独支えられるような卓越した有力者がおらずに互いに牽制しあう関係にあるという政治的安定要因連署設置断念させ、また北条時房没後泰時執権連署を置かなかったことも経時単独執権制を選択させたとしている。

※この「執権職相続」の解説は、「北条経時」の解説の一部です。
「執権職相続」を含む「北条経時」の記事については、「北条経時」の概要を参照ください。

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