執権就任
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建長8年(1256年)11月22日に執権(義弟)の時頼が病のため、時頼の嫡男・北条時宗に執権職を譲るまでの一時的な中継ぎ(眼代)として長時に白羽の矢が立ち、6代執権に就任する(『吾妻鏡』)。この際、武蔵国務・侍所別当・鎌倉小町の別屋敷なども譲られている。しかし実質的な権限は病の癒えた時頼が掌握していた。1260年には赤痢のため病床に付していた宗尊親王の代理として鶴岡放生会に参列したが、長時自身、この年の末には病魔に蝕まれていた。文永元年(1264年)7月3日、病により執権職を辞任して出家、叔父の北条政村が7代執権となる。同年8月21日、浄光明寺にて35歳で死去。同寺には長時の木像と位牌が今も現存している。勅撰集に12首の歌が採録されている。 長時の家系、赤橋流は義宗、久時、守時といずれも昇進が早く、引付を経由することなく評定衆に選出されており、家格の高さは北条氏の中でも得宗に次ぐものであった。最後の執権・赤橋守時、足利尊氏の正室赤橋登子は曾孫にあたる。
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