10日執権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 00:10 UTC 版)
正中3年(1326年)3月、北条高時が病気で執権職を辞職して出家すると、貞顕も政務の引退と出家を望むが、慰留を命じられる。後継を定めない高時の出家は次期執権に高時の子の邦時を推す内管領の長崎氏と高時の弟の北条泰家(後の時興)を推す外戚の安達氏が対立する得宗家の争いに発展する。 3月16日、貞顕は内管領・長崎高資により、邦時成長までの中継ぎとして擁立されて15代執権に就任する。このとき貞顕は「面目、極まりなく候」と素直に喜び、執権就任の日から評定に出席するなど精力的な活動を見せた。 だが貞顕の執権就任に反対した泰家は出家し、それに追従して泰家・安達氏に連なる人々の多くが出家した。これにより貞顕暗殺の風聞まで立ったため、窮地に立たされた貞顕は10日後の3月26日に執権職を辞職して出家した(法名は崇顕)。 そして新たな執権には4月24日に北条守時が就任した。一連の騒動は嘉暦の騒動と呼ばれる。
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